若い頃の研ぎ澄まされた「危ない」演奏は鳴りを潜め、全編を通じてあったのは厳しさと柔らかさが同居する温かい音楽。おそらく、それもまた「孤高」。
チョン・キョンファのバッハに期待する人たちがこんなにも大勢いるとは思ってもみなかった。サントリーホールは文字通り超満員。たったひとりの初老の女性が2千人近くの聴衆を相手に繰り広げる音のドラマに誰もが感心したことだろう。
彼女が下手から登場するや、そしてソナタ第1番の冒頭を聴くや僕は思わず涙した。音程は決して安定しない。音もところどころ霞む。しかし、(途中リタイア期間があるとはいえ)演奏生活50年近くに及ぶ老練の弓はそこにいるすべての人々の魂をとらえたことと僕は思う。
ソナタ第1番ト短調BWV1001。
ステージ上が聖なる空間だとするなら、今宵の客席はとても俗っぽい空間に思われた。残念ながら、しばらくの間演奏者と聴衆の間にはとても高く厚い壁があった。第3楽章シチリアーノの最中起こった下品なくしゃみと、それに僅かに反応するヴァイオリニストの間に感じられるギクシャク。
音楽とは、演奏する者とそれを聴く者との一期一会のコミュニケーションなのだとつくづく思う。風邪やインフルエンザが蔓延する今の時期ゆえか、いつも以上に咳き込む人の数が多いように感じられた会場では、たった一挺のヴァイオリンがその空気の圧され、演奏の緊張感を削ぎ、何だか緩慢な印象を与えることになってしまった。
そんな中、パルティータ第1番ロ短調BWV1002ドゥーブル、プレスト途中でキョンファが突然咳き込むというハプニングがあった。一旦演奏を止め、やり直し。しかし、これが逆に良かった。それまで会場を覆っていた不穏な緊張感を解くきっかけになり、そこから演奏は一気に開放感溢れるものになる。以後、緊張と緩和のバランスが見事にとれた音楽が繰り広げられた。
とはいえ、今日の聴衆にはもう少し息を凝らして集中して聴けないものなのかという不満は正直あった。何より観客が咳をする度にチョン・キョンファが過敏に反応し、都度一瞬音楽の流れが止まってしまうのだから。
チョン・キョンファ ヴァイオリン・リサイタル
2017年1月28日(土)18時30分開演
サントリーホール
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ
・ソナタ第1番ト短調BWV1001
・パルティータ第1番ロ短調BWV1002
休憩
・ソナタ第2番イ短調BWV1003
・パルティータ第2番ニ短調BWV1004
休憩
・ソナタ第3番ハ長調BWV1005
・パルティータ第3番ホ長調BWV1006
15分の休憩を挟み、忘我の境地、渾身のソナタ第2番イ短調BWV1003。このあたりからチョン・キョンファの調子はどんどん上がってゆく。何より演奏が終わるや肩当スカーフを床に落としたまま一切目もくれず下手に去る彼女。そして、別のスカーフを手にして現れるや奏したパルティータ第2番ニ短調の恐るべき集中力。一気呵成に全曲が奏され、バッハの魂が見事に厳しく表現された。終曲シャコンヌに至っては聴衆が一体となり、あれほどうるさく落ち着きのなかった会場がまるで空気が固まったかのようになった。何という小宇宙。最後の音が鳴り終るや否や、あちこちから飛び交うブラヴォーの声。技術的には危なげな部分もあったが、かつてのどの演奏に比較しても引けをとらない精神性とでも表現しようか。実に素晴らしかった。
さらに、20分の休憩後の第3部。
ここに及んで、チョン・キョンファの演奏にも随分と余裕が見られるようになった。
僕はソナタ第3番ハ長調BWV1005第2楽章フーガ・アラ・ブレーヴェに心動かされ、パルティータ第3番ホ長調BWV1006第3曲ガヴォット&ロンドーの愉悦に心躍った。
最後はスタンディング・オヴェイション、拍手喝采の嵐。
キョンファは観客に投げキッス。何とも愛らしい人だ。
それにしても全曲を一晩で披露するチョン・キョンファのスタミナとチャレンジ精神に脱帽。昨年リリースされたスタジオ録音盤をそろそろ聴いてみようか・・・。
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渡辺です。
私も聴いていました。
キョンファが突然咳き込んだのにはびっくりしました。
今週だけで3回のリサイタルなので、彼女もお疲れのようでしたね。
なお、観客のマナーについては同感です。
体調を整えるのも演奏会のマナーだと認識して欲しいです。
>今日の聴衆にはもう少し息を凝らして集中して聴けないものなのかという不満は正直あった。
一般論として、よくある悲しい現実ですね。
ただ、日韓関係悪化や、俄かに不安定さを増している日米関係などの世相と、まったく関係ないとはいいきれないかもしれません。少なくとも私は、積極的にかかわりたくないです。
>渡辺様
お会いできなくて残念でした。
いろいろと思うことありましたが、それでもチョン・キョンファに接するというのは貴重な時間だと思います。
引き続きよろしくお願いします。
>雅之様
確かに今の世相の反映はあるのかもしれません。
盲点でした。ありがとうございます。
[…] うなものなのかもしれない。いわゆる立ち上がりが重要だということ。昨日のチョン・キョンファのリサイタルでも、何やかんや言いながら、僕は冒頭の数秒を聴いて涙した。 そのことは […]