クレンペラー指揮フィルハーモニア管のブラームス交響曲第2番&第3番を聴いて思ふ

深夜の山中湖畔。月輪が神々しい。
大地があり、空があり、湖があり、人がある。
大自然の中で触れるブラームスは一味も二味も違う。土や水に触発されると、人の感性は見事に飛翔する。
オットー・クレンペラーの録音は、思った以上に「普通」だ。しかし、その常識的な解釈のうちにこそ偉大な指揮者の類稀な感性と思念が刷り込まれていることが聴き込むほどにわかる。極めて自然な呼吸と、実に解放的な態勢によって紡がれる音の魔術。思わず聴き惚れる。
何より「遅過ぎず、速過ぎず」理想的なテンポ。そして、一切の弛緩なく、一定の緊張を保ちつつ、しかしあくまで自然な流れで音楽を再創造するクレンペラーの力量。まったく素晴らしい。

例えば、ヴェルター湖畔ペルチャッハで作曲された交響曲第2番の造形美。うるさい反復を排除して、全曲が40分弱で奏される心地良さ。およそクレンペラーとは思えぬ第1楽章アレグロ・ノン・トロッポの流れる爽快。また、第2楽章の深みを湛えた憂いは、指揮者の本懐。そして、第3楽章を経て終楽章アレグロ・コン・スピーリトの豪快な愉悦。コーダの爆発は彼ならでは。どの瞬間も実に音楽的。

ブラームス:
・交響曲第2番ニ長調作品73(1956.10録音)
・交響曲第3番ヘ長調作品90(1957.3録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

さらに、温泉地ヴィースバーデンで生み出された交響曲第3番は、ブラームスの雄渾な一面を、余裕の筆致で創出した渾身の一作。同じくクレンペラーの棒にはそれまでに培った余裕が漲り、悠揚。音の輪郭が明瞭で、オーケストラの個々の楽器が浮き上がり、第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭の第1主題から聴く者の心を鷲づかみにする。第2楽章アンダンテのファゴットの音色はことさらに懐かしさを喚起する。また、第3楽章ポコ・アレグレットの色香に感激。続く終楽章アレグロ―ウン・ポコ・ソステヌートは、壮絶だ。

「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」
という一句が勲の心を刺した。そこに現在の自分に対する鉄槌のような文字を読んだのである。
三島由紀夫著「奔馬(豊饒の海・第2巻)」(新潮文庫)P426

形のない音楽は永遠だ。
中でも、心を刺す音楽は普遍的。
ヨハネス・ブラームスの天才。オットー・クレンペラーの才覚。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村


2 COMMENTS

雅之

空間と時間の中でしか、音楽は存在できませんよね。

物理学的には、「この空間」はおそらく永遠ではない上に、「時間」とは私たちの錯覚に過ぎず、存在すらしていない可能性があるそうです。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

>物理学的には、「この空間」はおそらく永遠ではない上に、「時間」とは私たちの錯覚に過ぎず、存在すらしていない可能性があるそうです。

なるほど。
今日の昼に山中湖から東京に戻り、神楽坂を歩いていてふと思いました。
東京には本当にたくさんの人が街を闊歩していますが、それぞれがそれぞれの夢を見て、それぞれの物語を持っているのに、その物語には僕は一切の関係がないんだなと。
そのことに思い至った瞬間、確かに時間とは錯覚なのかもしれないと。

すべては夢の中。(笑)
ありがとうございます。

返信する

雅之 へ返信するコメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む