
1953年11月、ローマでの「指環」4部作完結後、フルトヴェングラーはRAIのインタビューに応えている。
はじめてコンサートを開いたのは、18歳の時。
その時のプログラムは自作と、難しいブルックナーの交響曲第9番ニ短調だった。ともかく指揮者としてやらねばならない仕事を懸命にこなしたお蔭で、(今回の「指環」と同じく)聴衆に感動していただけたことをはっきり思い出す。それは遠い昔のことだが、自分にとって最高のひと時だった。
今回の「指環」4部作は、歌手はもちろんオーケストラのお蔭で稀に見る完成度を誇った。関わる皆様に感謝を送りたい。そして近い将来、またお会いできることを楽しみにしている。
(たぶんこんな内容だ)
少なくとも音楽に従事するときのフルトヴェングラーはやっぱり神がかっていたと思う。
(おそらく人間としては問題も相当あっただろうが)
最晩年のフルトヴェングラーの体調は決して良いとはいえなかった(もともと肺機能は弱かったのだろうが、数年前の大病の際の薬の副作用の影響もあったのだろう)(難聴問題然り)。
ミラノとローマの《指環》におけるきわめて注目すべき特徴は、両方ともイタリアで、しかもイタリアのオーケストラによって演奏されたことだ。この事実には批評家の大半が言及している。スカラ座管弦楽団もローマ放送局の演奏家も、ドイツならば二流オーケストラでも自然に出せるような伝統の重みやたしかなスタイルで演奏できなかった。sかし、このような真正なるものという重荷を欠いていたからこそ、これらの演奏に一種独特の恵みが与えられたのかもしれない。それというのも、この録音が単なる二組の《指環》の演奏を単に記録しただけでなく、二つの一流オーケストラが演奏者集団として初めてこの音楽を理解し、経験していく過程そのものの記録でもあるからだ。フルトヴェングラーはどんな曲を指揮しても、まるでそれが初めてこの世に生まれたかのように音を響かせる。
~サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P333
1953年10月から11月にかけてのローマでの「指環」は、コンサート形式で演奏された。
1950年のスカラ座の方が、よりフルトヴェングラーらしい熱狂が刻まれるように思うが、わずか3年ながら病気を得た指揮者の、枯淡の(?)解釈がものをいうローマ「指環」は、録音技術そのものの進歩もあるせいか、一層生々しい音楽を伝える(ただし、録音から感じられるパッションは必ずしも枯淡とは言い難い)。






しかし一方、帰国後の書簡の言葉から感じられる(心の)弱々しさは、ステージ上で指揮する巨匠とはまったく別の印象だ(音楽を語る際には相変わらず熱がこもるが)。
つい今の今までは、1月中旬にミュンヘンで自作の交響曲を聴き、そのついでに貴兄にもお目にかかりたいと思っておりました。しかし健康上の理由からもはやこれを断念せねばならなくなりました―今のところは、ちょっとした風邪で床についているのですが、1月中旬には1か月か1か月半の療養に出かけなければなりません。しかもそれがまったく猶予を許さぬのです―それでせめてこうして今の心境をお知らせしようと思うのです。長いことぜんぜんお便りのなかったのが残念でなりません。・・・
ローマでは、ニーベルングの指環全曲をラジオで指揮し、およそこれまで人間の作った最大の曲であることを再確認いたしました。《オラトリオ》としてさえ、この音楽は比類のないものです。
幸多きクリスマスと新年を祈りつつ。
(1953年12月25日付、エーミール・プレトーリウス宛)
~フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P284-285
ローマ「指環」の成功の報告が、(気弱になっている中といえど)巨匠の喜びを大いに伝えている。そしてまた、翌日の別の手紙で彼はまた次のように書くのだ。
ぼくはエーベルシュタインベルクのサナトリウムに入院して、3日にわたってX線透視や検査を受けました。そうでもなかったら、わざわざバーデン=バーデンへなぞ行くはずがないというものです。
1月半ばにはもう一度そこへ行って、今度は数週間治療を受けることになるでしょう。かなり急を要するので、四の五の言っているときではないと分かったのです。このために、フィルハーモニーの演奏旅行、シュトゥットガルトでの演奏会はできなくなりました。思えば実に残念なことです。ちょうどぼくの作品を演奏して、聴衆と新しい「対面」を果たすのを喜んでいたのですから。
今は風邪で寝こんでいます。旅行中に引いたのが、帰ったら急にひどくなったのです。
29日には行ってなくてはならないベルリンの演奏会も、たった今、取り消さねばなりませんでした。
(1953年12月26日付、イルメ・シュヴァープ宛)
~同上書P285-286
1年後にはこの世にいない巨匠の不安が感じられる一節だ。
(よもや余命1年に満たないとは本人も想像外だろうが)
極めつけの「ラインの黄金」。
混沌から調和、真空から妙有へ。ここからすべてが始まるのである。
前奏曲からフルトヴェングラーの気迫が違う。
個人的にはやはり、「指環」の複雑な関係のとっかかりである第4場最終シーン、いわゆる「ヴァルハラ城への神々の入場」の壮絶な響きに、イタリアの聴衆は度肝を抜かれたのではないか、ワーグナーの真髄がついにつかめたのではないかと思わせるほどの熱気と感興に言葉を失う。
(聴衆のどよめきと拍手喝采!!)








