
一時期(すでに40余年が経過する!)日本フルトヴェングラー協会の頒布レコードを蒐集していた。当時、まもなくCDプレイヤーを手に入れ、アナログ・レコードを聴く機会が徐々に減っていった頃だったからか、ほぼ未通針のままその頒布レコードたちを棚の奥に長い間眠らせておいた。何十年ぶりに内袋から出したレコードは、ミント・コンディションで驚くほど良い音がした。
1953年4月14日、ベルリン・フィルの定期演奏会でのフルトヴェングラー。
ベルリンはティタニア・パラストでのライヴ・レコーディング。

この日のすべてのプログラムが収録されており(曲間の拍手等はカットされているが)、臨場感抜群。その上、幕間には作曲家であり、音楽評論家でもあったエルヴィン・クロル博士との対談まで収録されていて、実に興味深い。
この音楽会のプログラムを私は生命の喜びのプログラムと呼びたいと思います。ベートーヴェンの交響曲第8番はユーモアの雅歌であり、深くて男性的な快活さが横溢していて、ベートーヴェンの作品の中でも最も円熟した作品の一つです。ティル・オイレンシュピーゲルはシュトラウスの交響作品の傑作であり、現在までの音楽史をひもといてもこの作品に並ぶものは見当たらず、かつベートーヴェンに匹敵し得る天才的な作品であります。そうして(ベートーヴェンの)第7番でありますが、ヴァーグナーがいみじくも舞踏の聖化と呼んだのは決して間違いでなく、壮麗さをまばゆいばかりに湛えている数楽章を持ち、その中央に、第2楽章で人間のはかなさへの警告がこの上もなく明白にかつ雄大に表現されるこの交響曲は人間の創造力の偉大な象徴の一つであります。
(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー)
ベートーヴェンの交響曲と「ティル」を同列に並べるという冒険!?
(いかに巨匠がこの交響詩を評価していたかがわかって面白い)
戦後間もなくの時期にあって、フルトヴェングラーはドイツ人の音楽生活の衰退を予言しつつ、どうあるべきかを端的に説いているが、それは何もドイツ人に限ったことではなかった。まして音楽生活に限らず、人が生きる意味において大切なことがそこでは示唆されているのだ。
ドイツの音楽生活は外の多くの分野同様、つまるところドイツ国民次第です。ドイツ国民が自分自身であり、かつ自分自身であることを維持する勇気を持てば、活発な音楽生活が存続するでありましょう。
要はアイデンティティ次第だということだ。フルトヴェングラーはどうすれば今日のドイツの音楽生活の衰退を阻止できるかについて以下のように結論づけ、語っている。
そこで決定的に大切なのは、我々がこの危機に気付き、認識し、黒白をはっきりさせることで、空しい自己欺瞞のうちにこの危機に欺かれないことであります。我々が現在ヨーロッパの人々の芸術的な共同生活をかち取るための困難な戦い、それも。これまでに我々が経験したことがないほどの戦いの真っ只中にいることを認めない人がいたら、その人は盲目以外の何ものでもないのです。
やっぱり「気づき、認め、周囲に振り回されないこと」のようだ。
盲目になるなかれ。可能ならば開眼し、第三の眼をもって未来を見据えるのがベストだろう。
・ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調作品93
・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
・幕間対談 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー博士/エルヴィン・クロル博士
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.4.14Live)※自由ベルリン放送収録(WFJ 2-3)
フルトヴェングラーはベートーヴェンの8番のセッション録音を残していない。
いくつかのライヴ録音の中で、肩の力が抜け、最も中庸で音楽的に充実した演奏がこれだと僕は思う。
そして、第7番は最晩年のものでありながら、絶頂期のスタイルを貫いた演奏であり、同時に枯淡の境地に足を踏み入れた巨匠の「白鳥の歌」ではないのかと思えるほどの「静けさ」を獲得した音楽に感動する(デッドな録音のせいもあろうが)。
第1楽章序奏ポコ・ソステヌート、相変わらずアインザッツのずれた冒頭に、紡ぎ出される音楽の蠢き、生命力を思う。
白眉は第2楽章アレグレット。物憂い、どこか遠くを見る目でドイツの未来を思う、フルトヴェングラーの儚い「国を憂える歌」。
一転、第3楽章プレスト,アッサイ・メノ・プレストから終楽章アレグロ・コン・ブリオにかけ音楽はとことん激しくなり、暗い表情ながらそこに希望の光が差す。
(まさに祖国ドイツの音楽的復活を希うフルトヴェングラーの心境がそのまま刻印されるようだ)いずれも踏みしめるようなテンポが音楽を一層堂々たる趣きに変える。