雨降って地固まる・・・

mendelsshon_elias_sawallisch.jpg久しぶりに大きな地震だった・・・(冷汗)。
棚から置時計とメンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」の2枚組CDが落ちてきた(ケースが木っ端微塵・・・)。時間的にもかなり長かったので、地震嫌いの僕は思わず机の下に隠れてしまった(苦笑)。

ところで、つい先日からブログ記事を更新したり、コメントを投稿しようとすると「Internal Server Error」が出るようになった。サーバ側に負荷がかかりすぎて生じる内部エラーらしいが、もともとレンタル・サーバそのものにそれほどの予算をかけていないためいつかはそういう事態に陥るのだろうと予想はしていた。ただ、それにしても早過ぎる。サーバというもの基本的に「安かろう悪かろう」というものだから、少なくともビジネス用に使用するものに関しては最低限のお金は費やした方がいいですよと前々からアドバイスを受けていたのだが、そこは考えが少々甘かったか・・・。サーバそのものに事故があったり、最悪運営会社が飛んでも大難には至らないようにそこは用意周到、準備を整えておくべきか。昨年、旧ブログのデータが吹っ飛んだ際、バックアップをとっていなかったものだから結局復旧不可能で大そう難儀をしたが、少なくともその二の舞は踏むまいと、きちんと最低限のメンテナンスはしておこう(いずれまた近いうちにサーバ移転ということもありえるかな・・・)。

「形あるものは必ず壊れる」し、「世の中に存在するものは無常だから、下手に拘りや執着を持たないほうがいいよ」ということをまた教えてくれているのかもしれない。そんな気はさらさらなかったが、目の前に「聴け!」とばかりに置かれたようなものなので「エリヤ」でも聴いてみることにする・・・。

メンデルスゾーン:オラトリオ「エリヤ」作品70
エリー・アメリング(ソプラノ)
ペーター・シュライヤー(テノール)
テオ・アダム(バス)
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団・放送合唱団ほか

今年はハイドン没後200年であると同時に、メンデルスゾーン生誕200年という年でもある。解説書によると、メンデルスゾーンは「列王記略」上第19章第11節の「主、過ぎゆきたもう」の部分に深く感動し、「エリヤ」の構想を固めたとのこと。この部分はちょうど第2部第34曲の合唱にあてられている。

主が通り過ぎて行く時、
山を裂き 岩を砕く、
強い風が
主の前に起こった、
しかし主はその嵐の中にはいなかった。
主が通り過ぎて行く時、
大地が揺れ、海が荒れ狂った、
しかし主は地震の中にはいなかった。
そして地震の後に火が起こった、
しかし火の中に主はいなかった。
そして火の後には静寂が、かすかなささやきがやって来た。
そしてそのささやきの中 主は近づいてきた。
(~メンデルスゾーン対訳集)

いやぁ、素晴らしい!このところの豪雨水難も、地震も実は「静寂」の前の予兆なのか?!まさにシンクロニシティ・・・。

メンデルスゾーンの音楽の魅力は、こういう大曲でも可憐な小曲でも、限りなく美しいメロディが散りばめられていることと、かつ開放感に満ち溢れているところ。「エリヤ」も、旧約聖書からとられているテキストの詳細を理解しようとすると途端に眉間に皺が寄ってしまうが、70分以上を要する音楽のどこをどう切り取って聴いてみても、心を震わせてくれる楽想に満ちているところがさすがである。劇的で、そしてまた繊細で、若きサヴァリッシュの棒は、火を噴いたかと思えば、ときに静謐に祈るような深遠さをのぞかせる。

ちなみに、コメントを投稿いただく際、必要以上に時間がかかったり、場合によってはエラー表示が出る場合でも、きちんと投稿はされていますので、ご安心を。ふるってコメントをご投稿ください。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
「エリヤ」という宗教曲については勉強中で、まだコメントするだけの力量がありません。
・・・・・・イスラエルの民衆を救おうと命懸けで戦う勇敢なエリアスが、民衆に歓迎されては裏切られ孤独に苦しむ姿は、まさにこの世の常である。神に助けを乞う弱い人間との両面が見事に表現されている。エリアスの勇気ある祈りが通じてついに雨が降るシーン、燃えさかる火の車に迎えられて劇的に昇天するシーンの描写など、メンデルスゾーンのオーケストレーションの凄さ、音楽の作り方の見事さには、何度指揮をしても衝撃を受ける。
そして何よりも私が一番強調したいのは、メンデルスゾーンが少年時代から培った宗教心の純粋さである。音楽家としての力量より、むしろ人間としての純粋さこそが彼の特徴であり、それがあのような宗教曲を作らしめているのだ。・・・・・・《「エリアス」に代表するメンデルスゾーンの宗教作品の魅力(飯守泰次郎) 音楽現代2009年3月号より》
そのメンデルスゾーンにとって、ユダヤ教からキリスト教への改宗は、我々が考える以上に大きな意味を持っていたのでしょうね。
しかしユダヤとユダヤ人を取り巻く受難や悲劇、現在も連綿と続く紛争や流血・・・、宗教は諸刃の剣ですよね。
私は、どの宗教でも最も尊い教えは「自己犠牲の精神」で、この教義があるからこそ、多くの宗教は素晴らしいと思えるのです。
・・・・・・般若心経では自己犠牲とは自己を放棄することで、『自我を捨て、無我になる』すなわち自分以外のもの、普遍的世界だとしている。
法華経でも自分の利益を犠牲にして他人の利益を図る『利他心』は当然の真理とし、これほど尊いものはないと教えられる。
キリスト教では約2000年前、イエス・キリストが人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かったことから自己犠牲は愛だとされている(ヨハネ福音書「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない」)。・・・・・・《Wikipediaより》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%8A%A0%E7%89%B2
「自己犠牲の精神」こそが、世界の人の心をひとつに団結させる唯一の道だと思うのですが、今日の宗教の実態からは程遠いのが現実だし、私自身もエゴの塊で、まるで失格です、どうしましょう(笑)・・・。
今日はまとまりのないコメントですみません。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
「エリヤ」については僕も同様です。どちらかというと僕は昔からオペラでも何でも「音楽」優先で聴くタイプでして、「エリヤ」についてもこれまで専ら音楽ばかりを聴いていました。だから何が歌われているのかはほとんど知りませんでした。ただいま勉強中です。
>音楽家としての力量より、むしろ人間としての純粋さこそが彼の特徴であり
飯森さんの言葉も説得力ありますね。
「自己犠牲」という言葉って、言葉だけ捉えるとちょっとネガティブな感じがしますよね。「自己犠牲」とは、「自分を犠牲にしなければならない」という「must」ではなく、そこに「必然性」があるものだと思うんです。たとえば「溺れた子どもを助けるために親が命を顧みず濁流に飛び込む」行為は、そういう「自己犠牲」という意識、意図あってのものではなく、ついついやってしまう「愛」なんだと思うのです。
という意味からすると、誰にでも愛する肉親に対してはそういうところがあるでしょうから、人間はやっぱり「性善説」で成り立っているんだと思います。
まぁ、普段は僕も含めてみんな「意識が自分に向いて」ますから、「エゴ」の塊になってるんですが・・・(苦笑)。でも、それがまた人間なんですよね。そういう「弱さ」がまた人間らしいところでもあるのです。
僕は宗教の問題点は、教義によって「must」感をもたせるところだと思います。「こうせねばならない」と言われるとついつい反抗したくなります(笑)。もともと自らの中にある「愛」に気づくことで状態は随分変わる思うんですけどね・・・。
とはいえ、僕もまったくまだまだです。
雅之さんのおっしゃる「私自身もエゴの塊で、まるで失格です、どうしましょう(笑)・・・。」という言葉、そのまま僕にも当てはまります。それが人間ですから・・・。

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