感謝

shibata_minao.jpgもうかれこれ6,7年になるだろうか。拙宅では食事は動物性のものは一切使わない。そう、いわゆるベジタリアンである。この習慣をもって以来身体の隅々から余分な脂肪や毒が排除され、それまで以上に心身がすっきりとした安定した状態にあり、すこぶる気持ちが良い。とはいえ、人様との打ち合わせなどで外で食事を摂るとき、どうしても完全ベジタリアンで通すわけにはいかないときも当然ある。出されたものを食べないこと自体失礼に当たるという思いもあるし、あるいは食べられないというわけでもないゆえ、そういう時は「(命を)いただきます」という謙虚な気持ちで、感謝の念を込めて喜んで口にするようにしている。気持ちの持ちようで、実際とても美味しくいただける。

久しぶりの友人との食事ということで昨日は昼も夜も外で食事をした。魚も美味しくいただいたし、さすがに牛ハラミは遠慮したものの鶏肉も美味しくいただいた。

一日外出せず。
また次の添削用エントリーシートが送られてきたものだから、少しずつ始めることにする。ここのところモーツァルト漬けだったから、たまにはガラリと毛色を変えようとBGMに柴田南雄の代表作を抜粋で流す。タワーレコードのヘリテージ・コレクションの一つとして昨年CD3枚組でリリースされたものから1枚目を。

柴田南雄の音楽
・シンフォニア(1960)
・コンソート・オブ・オーケストラ(1973)
・金管六重奏のためのエッセイ(1965)
・ピアノのためのインプロヴィゼーション第二(1968)
・カドリール(1975)
渡邉曉雄指揮東京都交響楽団
金石幸夫ブラスアンサンブル
松谷翠(ピアノ)
高橋美智子(マリンバ)
堅田喜三久(小鼓)

「カドリール」にただただ無心に耳を傾けるが良い。作曲家自身が意図した西洋音楽の様式のリズムと日本音楽の様式のリズム、そしてマリンバ奏者の心音、ある数式から導かれた非周期的なリズムが見事に調和し、不可思議で、かつ魅惑的な音像が眼前に繰り広げられる。そこに感じられるのは生きとし生けるものすべてへの感謝である。すべてが一つになる。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
私は、故 柴田南雄氏のクラシック音楽評論には、音楽に対する聴き方が変わるほどの多大な影響を受けました。演奏スタイルとその時代の「空気」の密接な関わりについての考察などについては、特にそうです。
例えば、1938年1月15日~16日に録音されたワルター指揮ウィーン・フィルのマーラー「第九」「第五~アダージェット」ライヴ録音について、独墺併合前夜のウィーンの独特の気分とワルター自身の当時の極限に近いほどの危機的かつドラマティックな日々に言及され、「私はヴィーンの伝統と同時に、まさに1930年代のヴィーンで行われた演奏でなければならぬ必然的な一回性を非常に強く感じる。他の時と所からこのような演奏様式も演奏結果も生まれない。たとえ同じワルターが指揮しようとも」(東芝GR2255~6 ライナー・ノーツ 1973年9月新譜LP)と述べられた文章などは、学生時代初めて読んでから今日まで私の音楽観の根幹に、強い影響を与え続けています。
音響の悪い日比谷公会堂で積極的にコンサートを聴いてみたいのも、昭和前半の若き柴田氏の音楽遍歴を追体験してみたいという想いもあるからです。
ところが、本業である作曲家としての柴田氏の作品については、ほとんど積極的には聴いてこなかったので、まったく勉強不足で無知のままです。
御紹介のCDを含め、これを機に、今こそ柴田氏の全作品を聴いてみたいものです。よきアドバイス・御教示をお願いいたします。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>演奏スタイルとその時代の「空気」の密接な関わりについての考察
興味深いですよね、なるほどと思わせられます。ワルター&ウィーンのマーラーについての言及も奥深いです。音楽が「時間」の芸術であることが身に染みますね。
>音響の悪い日比谷公会堂で積極的にコンサートを聴いてみたいのも、昭和前半の若き柴田氏の音楽遍歴を追体験してみたい
なるほど、そういうことなんですね。
>本業である作曲家としての柴田氏の作品
これについては僕もまだまだ勉強不足です。人に教えられるほどの知識はもっておりませんので、ぜひ一緒に勉強して参りましょう。

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雅之

コメントに不正確な部分を発見しましたので、訂正・補足いたします。
①1938年1月15日~16日に録音されたワルター指揮ウィーン・フィルのマーラー「第九」「第五~アダージェット」、当然岡本さんもよくご存知のとおり、ライヴ録音は1月16日の「第九」のほうだけでしたね。前日1月15日の「第五~アダージェット」はセッション録音です。
②柴田南雄のライナー・ノーツの引用は、少なくとも文章前段も入れるべきでした。
「たしかにこの時期のワルターの演奏は天才的の一語に尽きるが、私はヴィーンの伝統と同時に、まさに1930年代のヴィーンで行われた演奏でなければならぬ必然的な一回性を非常に強く感じる。他の時と所からこのような演奏様式も演奏結果も生まれない。たとえ同じワルターが指揮しようとも」

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