パルシファル

i_pooh_parsifal.jpgここのところ毎日のように大学に出掛けては講義をしているが、大学のレベルによって学生の就職に対する意識、行動力に歴然と差が表れるというのは面白いものである。偏差値にほぼ比例してそれらは高くなる。就職採用試験のポイントは「自己PR」と「志望動機」である。特に、「志望動機」は自身を売り込むための肝になる部分だが、これは徹底的な業界・企業研究をしない限り納得感のあるものは作れない。ことある毎に「OBOG訪問」の重要性を説いているが、頭で理解しても実際にはなかなか行動の起きない若者が多いのも事実。

午前、表参道にある某私大でエントリーシートのフォローアップ講座を受け持ったが、「OB訪問を既にしている」という学生が意外に(?!)多いことに吃驚した。さすがである。

最近では就職家庭教師なるビジネスも現れてきている。確かに能動的に動ける学生は大学側が実施するマス対象の就職講座を受講するだけで十分なのだろうが、ほとんどの学生はそれだけでは間に合わない。本人より親御さんが心配して、子どもに家庭教師をつけるようだが、これまた問題で、学生本人が受身だと教える方にとっては大変な労力を強いられる。難しいものである。

いずれにせよ、人にものを教えること、そしてその人が進歩、変化してゆく様を間近でみられるということはありがたいことだ。明日からまた「ワークショップZERO」。さて、どんな2日間が待っているのだろう。

「パルシファル」を聴く。といっても、ここではワーグナーの舞台神聖祝祭劇のことを指すのではない。ワーグナーのこの崇高なる宗教ドラマにインスパイアされて作られたロック音楽の古典。イタリアの生んだプログレッシブ・ロック・バンド「イ・プー」が1973年に発表した知る人ぞ知る第3作目のアルバムのことである。風光明媚なイタリアのバンドらしく、イギリスのバンドが持つ曇ったような曖昧なサウンドとは異を画し、前向きで爽やか、ロマンティックな音調が特長。標題曲の「パルシファル」も音楽的にはワーグナーのそれとは相容れない。いかにもイタリア的であり、のびのびとしてさながら歌謡曲のよう。あくまで思想的に感化された(のだろう)ロビー・ファッキネッティが創作した楽曲ゆえ、ワーグナー的なものを期待すると肩透かしを食らう。

清らかな朝が東方から生まれる
この森は君のもの
魂の内側に純粋な野生がよみがえる
君は恐れの意味を知らない
その騎士は神々にも似て
今まで決して見たこともない しかし
心の中に恐怖は生まれてこない
夜明けの狂気を君は望んでいる
森の中には何もないと知り
君は自らの宿命に気づいた
運命はきみにさずけられる名前の中にある
やがて輝かしい王となるだろう
走れ 走れ 走れ 走れ
~訳詩:CDライナーノーツより

パート1は元ドラムス(作詞に専念するため脱退した)のヴァレリオ・ネグリーニの作詞による歌がメイン、そしてパート2は壮大なオーケストラとバンドとのコラボレーション(ピンク・フロイドの「原子心母」を髣髴とさせる)。美しい。そしてイタリア的な開放感に満ちている。

I Pooh:Parsifal

ところで、昨日から地震が頻発している。伊豆、伊東辺りで繰り返し震度4~5レベルの揺れが観測されており、東京でもよく揺れる。今朝方は久しぶりに結構な揺れを感じ、例によって飛び起きた。こちらは栃木辺りが震源だったようだが。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ご紹介の盤は、さすがに知りません、勉強になります。それにしても、この時代のプログレッシブ・ロック全般がクラシック音楽と密接な関係にあることは、昔は意識しておりませんでした。
前回に続いて、ワーグナー晩年の最高傑作「パルジファル」について考えました。
最後の、「救済者に救済を!」という合唱、これは何を意味しているのでしょうか。「救済者」にも「救済」が必要・・・、私は何となく先日の話題にもあった、イエスの最期の言葉「Eli, Eli, lama asabthani」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?)を連想してしまいます。
「救済者」にも「救済」が必要 なら、「救済された救済者」にも「救済」が必要で、「救済された救済者を救済した救済者」にも「救済」が必要で、「救済された救済者を救済した救済者を救済した救済者」にも「救済」が必要なのではないでしょうか(笑)。
確かに「ニーベルングの指輪」に出てくる、どうしようもない神話の神様などを見ると、神様にも「救済」が必要だと思えてしまいます(笑)。
そして、そうした「救済の無限連鎖」からの脱却を意識するとき垣間見えてくるのは、東洋の地平、例えば、仏教や禅の世界です。
また、「パルジファル」の「賢者が愚者によりを救済される」というテーマも、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という、親鸞の「悪人正機説」さえ連想してしまうのです。
昨日コメントしていて、数年前、許光俊氏の評論に影響されて買った「パルジファル」のCD2組を、忙しくて忘れていて、ほとんど積読で聴いていないことを思い出しました。
①ケーゲル&ライプツィヒ放響 他
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1502708
②クーベリック&バイエルン放送響 他
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1985910
これは、真剣に聴いてみなきゃ!です。ひょっとするとクナやカラヤンの名盤より好きになれるかも!です。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>最後の、「救済者に救済を!」という合唱、これは何を意味しているのでしょうか。
この問題は長い間論議されてきてますよね。結局絶対的な神など存在しないということかもしれません(少なくとも外には)。先日もコメントしたように「神、仏」が自身の中に在るとするなら、救済者とは自分自身ということになりますし、救済された救済者も自分自身ということになります。
とすると、イエスの最期の言葉「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」も自分自身に問いかけているのだと考えることも可能です。これは二元論的に物事を捉えてしまっている以上、人間はいつまで経っても神の境地には至り得ないということを言っているようにも思えるのです。
それを切り抜けるには雅之さんがおっしゃる禅の境地、「空」こそがポイントになると僕も思います。
般若心経の冒頭に「観自在菩薩」という言葉が表れます。まさにその字のとおり「自らの内に在る菩薩(=仏)を観よ」ですね。
しかしながら、この件についてはまだまだ考察が足りません。これからまた外出しなければならないので、時間があるときにゆっくり考えてみたいと思います。
>ほとんど積読で聴いていないことを思い出しました。
ケーゲル盤、クーベリック盤、いずれも一時期話題になりましたよね。結局両方とも未聴のままですが、感想をお聞かせください。特にクーベリック盤が昔から気になっていました。

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