ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの浪漫。
ベートーヴェンの芸術同様、人間の内奥にある心理のドラマを音化するという意味で、ロマン派の音楽を振らせたら、おそらく彼以上の指揮者はなかなかいまい。没後60年以上を経ても人気の衰えないその演奏の魅力は、旧い録音を超え、人々の鼓動とまさに一体になるところ。そもそもフルトヴェングラーの志向するロマン主義というのはかくの通り。
形成力への崇高な要求は、単なる自称〈ロマン主義〉によって絶対に完遂されない。一方また、偉大な芸術作品はロマン主義に堕することがない。泡立ちあふれる生の象徴(ニーチェ)としてのみ、芸術はそもそも意味と価値とを保持するからである。とはいえ、幻影と夢の世界を現実に置き換えようとする精神の姿勢は、あくまでも拒否すべきであろう。それは、この現実と対決しえない無能力にほかならない。しかしこれと同じ傾向が、規模をひとつ大きくしてロマン主義の敵手たちのもとに現われる。彼らはロマン主義を蔑視するだけでは満足せず、現代的事象の一断面、すなわち〈運動性〉がとりもなおさず生命全体であると信じる。およそ愛、温情、心の充溢、感情などとよばれるものを拒み、それを宿敵のごとく忌諱するこの人々こそが、現代における真のロマン主義者である。
~マルティーン・ヒュルリマン編/芦津丈夫・仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーを語る」(白水社)P122
時代の風潮を問わず、芸術を形骸化してはならぬとフルトヴェングラーはいう。
おそらく、彼が生きたあの頃においても愛や心の伴わない「浪漫」というものが至る所に跋扈することを彼は嘆いたのだと思う。まさに彼のその思想を示すかのような録音が、このメンデルスゾーンであり、シューマンであり、またリストの作品なのだと僕は思う。
・メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」作品26(1949.2.15録音)
・シューマン:「マンフレッド」序曲作品115(1951.1.24&25録音)
・ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」~ハンガリア行進曲(ラコッツィ行進曲)(1949.3.31録音)
・リスト:交響詩「前奏曲」(1954.3.3録音)
・スメタナ:交響詩「モルダウ」(1951.1.24録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
「マンフレッド」序曲における、感情過多な、ドロドロした暗澹たる熱によって脳みそに火傷を負い、かつて僕はフルトヴェングラーのシューマンの虜になった。本来ならば外面的でどちらかというと軽薄な(?)印象であろうリストの交響詩についても僕は愛や温情を垣間見、やはりはまってしまった。
ちなみに、今や滅多に聴くことのない「モルダウ」ですら、フルトヴェングラーの棒だとあまりにも巨大で意味深い音楽に聴こえるのだから不思議(例えば、主題の再現直前の管楽器による明朗な描写の生命力!)。それは、フルトヴェングラーが、それこそニーチェのいう「泡立ちあふれる生の象徴」を意識して音楽を創造しようとしているからなのだろうか。
もはや60年以上が経過した旧い録音だけれど、表現は決して古びず、それぞれ指折りの演奏であると今も僕は信じている。
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