ルチア・ポップのシューベルト歌曲集(1983.11録音)を聴いて思ふ

鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの「ポッペアの戴冠」はとても良かった。
モンテヴェルディ当時の古楽器による管弦楽と歌手ひとりひとりの見事な饗宴。満員の聴衆を含め、そこには一体の美があったように思う。

思いきりのよい男じゃな。しかし、一身を潔くするというだけのことなら、たいしてむずかしいことではない。むずかしいのは天下とともに潔くなることじゃ。
下村湖人「論語物語」(講談社学術文庫)P159

下村湖人が孔子に語らせる言葉はひとつひとつが含蓄に富み、僕たちに生きる上での多大なヒントを与えてくれる。わが身のことだけを考えるなかれ。大事なことは、少なくとも関わりのある他のことを想うことだ。

音楽の世界は一如の世界じゃ。そこでは、いささかの対立意識も許されない。まず一人一人の楽手と心と手と楽器とが一如になり、楽手と楽手とが一如になり、さらに楽手と聴衆とが一如になって、翕如として一つの機をねらう。これが未発の音楽じゃ。この翕如たる一如の世界が、機到っておのずから振動を始めると、純如として濁りのない音波が人々の耳朶を打つ。その音はただ一つである。ただ一つであるが、その中には金音もあり、石音もあり、それらは厳に独自の音色を保って、けっしておたがいに殺し合うことがない。皦如として独自を守りつつ、しかもただ一つの流れに合するのじゃ。
~同上書P116-117

ひょっとすると音楽こそが世界を救うのかもしれぬ。混然一体となる美の本性が、真の音楽にはあるのだと思う。
ルチア・ポップの歌うシューベルトのリートを聴いて、孔子のこの言葉を想像した。
アーヴィン・ゲイジのピアノとの一如、また、フランツ・シューベルトの魂との一如。
シューベルトの歌曲には、音楽を超えた「何か」と作曲家の魂が触れあい、自ずと生まれた「何か」が横たわる。その「何か」を誘発せしめるのが歌手の役割なのだろう。

シューベルト:
・わが心にD860(シュルツェ詩)
・流れD693(シュレーゲル詩)
・少年D692(シュレーゲル詩)
・ばらD745(シュレーゲル詩)
・ますD550(シューバルト詩)
・さすらい人が月に寄せてD870(ザイドル詩)
・独り住まいD800(ラッペ詩)
・あふれる愛D854(シュレーゲル詩)
・若い尼僧D828(ザイドル詩)
・水の上で歌うD774(シュトルベルク詩)
・糸を紡ぐグレートヒェンD118(ゲーテ詩)
・漁師のくらしD881(シュレヒタ詩)
・泉のほとりの若者D300(サリス詩)
・シルヴィアにD891(シェイクスピア詩/バウエルンフェルト訳)
・幸福D433(ヘルティ詩)
ルチア・ポップ(ソプラノ)
アーウィン・ゲイジ(ピアノ)(1983.11.1-6録音)

「水の上で歌う」D774の、自然体の美しさ。水のせせらぎを表わす細やかなピアノの動きに思わず感応する。そして、17歳のシューベルトが生み出した「糸を紡ぐグレートヒェン」の魔性。ここでも、回転する糸車を表現するピアノがきれいだ。
そして、ヘルティの詩による「幸福」での、無邪気な楽しさは、ポップの歌唱の醍醐味。

私はこの曲(「水の上で歌う」)をきいていて、時に論語の一節を思い起すことがある。それはこの賢者にして聖なる人だった人物がある日河のほとりに立って、水の流れを熟視しているうちに「逝くものはかくの如きか、昼夜をおかず」と述懐したものである。これは孔子という人の感じやすくて、しかもゆったりと暖かい度量のある、それでいてまた想像力の豊かな多感な人としての面を示すエピソードとして、私にとって、かけがえのない大事な宝物みたいな話なのである。
吉田秀和「永遠の故郷―夕映」(集英社)P123-124

人生は水の如し。最晩年の吉田秀和さんが告白するフランツ・シューベルトへの愛の大きさに畏怖の念を感じざるを得ない。ルチア・ポップのシューベルトが素晴らしい。

 

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