デュトワ指揮モントリオール響のビゼー交響曲ほか(1995.5&10録音)を聴いて思ふ

天才と言われる人の音楽の許容範囲は狭いのだろうか。
さすがに本人も、まさか36歳で命を落とすとは思っていなかったのだろう、それでも生き生きとした音調の内に、計り知れない「儚さ」を感じるのは僕だけなのかもしれない。通底するのは喜びであり、明朗さである。
少年の頃から才能には長けていた。その意味では、モーツァルトにもメンデルスゾーンにも、あるいはサン=サーンスにも等しい(サン=サーンスは長生きだったけれど)。

16歳の作品である序曲イ長調の、相応の人生を経て来たのかと思わせるほどの、酸いも甘いも包括した深み。前半の静かで流れる旋律と、後半の勢い新たに発散する音調の美しい対比。シャルル・デュトワの棒が光る。

本来、どんな感情も一体なのだろう。持って生まれた魂に刻まれた安息。
歌劇「美しいパースの娘」から編まれた「ボヘミアンたちの風景」が優しく、そして有機的に響く。オペラという性質もあるのだろう、音楽は時に高ぶり、時に鎮まり、常に動く。実にデュトワに相応しい音楽たち。

ビゼー:
・序曲イ長調(1855)
・組曲「美しきパースの娘」(ボヘミアンたちの風景)(1866)
・交響曲ハ長調(1855)
・序曲「祖国」作品19(1873)
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団(1995.5&10録音)

ただし、若書きの交響曲は、この曲に潜在する繊細さを失ってしまうような恣意性が感じられ、その辺りがデュトワの神髄とはいえ、気になるところ。第1楽章アレグロ・ヴィーヴォの主題の揺れる快感も、また、浪漫の極みの第2楽章アダージョもとても美しいのだけれど。ちなみに、第3楽章スケルツォの勢いはいかにもメンデルスゾーン風(習作とはいえ堂に入る)。そして、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、古典美の枠に収まる佳品。躍動する音楽の奔流は確かに天下一品なのだから、もう少し自然に、脱力でやって欲しかったというのが僕の本音。

われは美し、人間よ、石の夢さながらよ、
わが胸に来て、君ら相つぎ、傷つくも、また詮無しや、
うべや、この胸、詩人と、不滅なる、無言なる、
物質もさながらの、恋ささやかん為めならば。
「美」
堀口大學訳「ボードレール詩集」(新潮文庫)P23

序曲「祖国」の、聴衆を鼓舞するような音調は、ビゼーが好事家に対して命を懸けて創造した作品であることを示すが、この作品の源流がオペラであることを考えると、完成ままならなかったことが悩ましい。独立して演奏されてみて、やはりこの天才の持つ独自の感性、何より旋律の美しさと躍動感に舌を巻く。これくらい動きのある音楽はデュトワに相応しい。

しばしばよ、音楽の、海のごと、わが心捉うるよ!
青ざめし、わが宿命の、星めざし、
靄けむる空の下、無辺なる宇宙へと、
われ船出する。
「音楽」
~同上書P82-83

何という器の大きさよ。
諸々問題を抱えてしまったシャルル・デュトワの復帰を願うばかり。

 

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