ヒリヤード・アンサンブルのシュッツ「マタイ受難曲」(1983.9録音)ほかを聴いて思ふ

キリスト教では、主イエスが人類すべての原罪を背負い、磔刑による苦い死を進んで受け入れたのだと説かれる。信仰を持ち、日々懺悔をすれば救われるというが、毎日のように罪を作り出す人間を、果たして実践なくして信仰だけで本当に救えるというのだろうか。

音楽の源は信仰であり、舞踊だ。
教会の中で歌われた敬虔な音楽に、数百年の時を経ても、僕たちは魂を洗われ、心を鼓舞される。音楽の力は偉大だ。おそらく言葉そのものよりも。

十字架の幹で苦難を受け、
私たちのために苦い死を忍びたもうたあなた、
キリストに栄光あれ。
あなたがかの世で、父とともに永遠に支配し、
哀れな罪人である私たちを助けて、
至福へと至らせてくださいますように。
主よ、憐れんでください。
キリストよ、憐れんでください。
主よ、憐れんでください。
礒山雅著「マタイ受難曲」(東京書籍)P46-47

ハインリヒ・シュッツが晩年、1666年に、ドレスデンの宮廷礼拝堂のために書いた(楽器が用いられない)声楽だけによる「マタイ受難曲」は、いかにも宗教的抹香臭さを醸すが、聴き込むうちに内面を刺激する宇宙規模の壮大さに圧倒され、いつしかそれがキリストの受難を歌ったものだということを忘れてしまうほど。言葉を超え、音楽の力の絶大さをこれほど認識させられる作品が他にあろうか。終結の合唱のあまりの透明感と美しさに言葉がない。

・シュッツ:マタイ受難曲SWV479
—序唱(合唱)
—かくして、イエスこれらの言を(福音史家、イエス、合唱)
—そのとき、十二弟子のひとりにて(福音史家、ユダ、合唱、イエス)
—彼ら食しおるとき(福音史家、イエス)
—彼ら讃美歌を唱えてのち(福音史家、イエス、ペテロ)
—なお語りたもうほどに(福音史家、イエス、ペテロ)
—ここに弟子たちはみな、イエスを捨てて逃げ去りぬ(福音史家、第2の偽証者、カヤファ、イエス、合唱)
—ペテロ外にて中庭に坐しいたるに(福音史家、第1の乙女、ペテロ、第2の乙女、合唱)
—夜明けになりて、すべての祭司長、民の長老らは(福音史家、ユダ、合唱)
—イエス、総督の前に立ちたまいしに(福音史家、ピラト、イエス、ピラトの妻、合唱)
—ここに総督の兵卒どもイエスをとりて(福音史家、合唱)
—こは、予言者によりて(福音史家、合唱)
—共に十字架につけられたる強盗ども(福音史家、イエス、合唱)
—見よ、そのとき神殿の幕、上より下まで真二つに裂け(福音史家、合唱)
—栄光、汝にあれ(合唱)
ポール・エリオット(福音史家、テノール)
ポール・ヒリアー(キリスト、バス)
ヒリヤード・アンサンブル(1983.9.2-3録音)

極力感情を排した、人間世界のドラマを感じさせない静けさこそが、この演奏の最大のポイントであるように僕は思う。あくまで俗世間と切り離さねばならぬ。気持など込めては話にならない。

しかし音楽は、この後、人々の感情に訴えかけるべく、進化(同時に退化?)して行く。何世紀にもわたるいわば「時薬」を得て、一層仰々しく、そして一層うねりとテンションを獲得していくのである。言葉の力も、その意味では実に大きい。

竹内まりやは語る。

生きていくということは、絶え間ない出来事の連なりだけれど、どんな年齢になっても、日々を味わいながら、愛に満ちた人生にしていきたいと心から思います。皆さんへの感謝を込めてこの歌を。

こういう思いを知った上で聴く楽曲は、黙っていても心に染みる。

陽気にはしゃいでた 幼い人は遠く
気がつけば五十路を 越えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ
「人生の扉」

・Mariya Takeuchi:Expressions (2008)

タイトルが示す通り、竹内まりやが人生のすべてを「歌」で「表現した」ベスト・アルバム。

‘86年に中森明菜さんのアルバム用の依頼が来た時、テーブルに彼女の写真を並べて、情景イメージが出て来るまでずっと見つめていました。せつない恋物語が似合う人だと結論を得た私が、めずらしくマイナーコードで一気に書き上げたこの曲を、のちに自分も歌い、今のようにスタンダードな存在になっていくとは夢にも思いませんでした。

2014年のクリスマスに武道館で聴いた竹内まりやの歌の中でも、最も身に染みたのがこの「駅」だったろうか。マイナーコードであるがゆえの唯一無二感が素晴らしい。

二年の時が 変えたものは
彼のまなざしと 私のこの髪
それぞれに待つ人のもとへ
戻ってゆくのね 気づきもせずに
ひとつ隣りの車両に乗り
うつむく横顔 見ていたら
思わず涙 あふれてきそう
今になってあなたの気持ち
初めてわかるの 痛いほど
私だけ 愛してたことも
「駅」

そして、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」を前奏(坂本龍一のシンセサイザー・パイプ・オルガン)に持つ「本気でオンリー・ユー(Let’s Get Married)」の弾ける愉悦(それでもここには間違いなく信仰はあると思う)。あるいは、山下達郎のコーラスの上に、薬師丸ひろ子の高音パートが重なる後奏を持つ名曲「元気を出して」の普遍性(ある思い出とともに僕の中でも永遠である)。

神のために奏された音楽は、時代の変遷とともに僕たちに身近な、日常の出来事を表現するものに変化していった。そこには失くしたものもあろう、また、得たものもあろう。しかし、対象が神であろうと人間であろうと、「迫真」という意味では、僕たちが生きていく上でなくてはならぬ「もの」であるように思う。

それにしても「カムフラージュ」はいつ、何度聴いても泣けてくる。

 

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