チェンバロの音

bach_wohltemperierte1_leonhardt.jpg僕はいまだピアノの下に潜って音楽を聴いたことがない。妻が「音浴じかん」、「音浴セラピー」なるものを提供しているにもかかわらず。あえてそういう機会をもたないということもあるが、個人的な情や想いを抜きにして批評してもらえる第三者により多く体験してもらった方がいいだろうと考えるから。それでも、昨日はピアノの下ではないが、隣のソファに眼を閉じて寝そべって、妻の弾く音楽に身を浸してみた。ただし、あくまで来月のリサイタルに向けての練習中の楽音なのだが。

J.S.バッハの「パルティータ第5番」。バッハの音楽はどれも複雑でありながら、極めて自然で調和的な響きをもつ。ほんのわずかな時間だが意識が遠のいていく中で、少し身体が楽になった。先日、東京ベジフェスで欲張って食べ過ぎたせいなのか、それとも他に原因があるのか、胃腸の調子が冴えないので、ここ2,3日は一層食事を質素にし、量もいつもほど摂取しないように心がけている。そのお陰で随分楽にはなったが、不思議なことに「音浴」を意識することで、ピアノの音色が五臓六腑に染み渡り、これがいわゆるセラピー効果なんだ、と少しわかった。今我々が聴いている西洋クラシック音楽の基本はバッハによって作られたということだが、その生音に接することがどれほど心地良いか。バッハ、そう、バロック時代は楽譜には音の強弱やバランスなどは細かく指定されておらず、基本的に演奏者に任されていたということを考えると、音楽に「のりしろ」があり、アバウトと言っては言い過ぎかもしれないが、東洋的とも言えるような「人間らしい、人間臭い」感覚がしっかり根づいていたということなのかもしれない。年月を経るにつれ、音楽の世界でもルールが一層がちがちになり、作曲者がこうあらねばならないという指示を加えるに従って、再現者側にある意味解釈の余地のない一律的なものができあがらざるを得なくなる。バッハによる平均律の完成は画期的な出来事だが、逆にそこが「没個性」に向かってのスタート地点だったのだろうか・・・。

バッハの懐の深さ、それはピアノで弾いてもチェンバロで弾いても変りなくバッハの音楽であること。そして、同じピアノでもグールドの弾くバッハ、リヒテルの弾くバッハ、あるいはニコラーエワの弾くバッハ、みな違って、そしてどれも感動的なバッハであること。個性をこれだけ幅広く受容できる作品はなかなかない。モーツァルトだって、ベートーヴェンだってひとつの「模範解答」があるわけではないのだが、それなりに「形」はあると思うから。

五感を刺激するバッハの音楽。できるならその音の波にずっと身を浸していたい。チェンバロによる平均律を聴くと、一層その想いが強くなる。

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻
グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)

チェンバロの音色は七変化だ。こんなにも様々な感情を表現できるのはことによるとピアノ以上かも。でもそれは、やっぱりレオンハルトだからこそ為せる技なのだろうか。
第6曲ニ短調などは特にプリペアードピアノで弾いているような錯覚を起こさせる。面白い・・・。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
あの時期のレオンハルトのチェンバロ演奏は魅力的ですよね。
>バッハ、そう、バロック時代は楽譜には音の強弱やバランスなどは細かく指定されておらず、基本的に演奏者に任されていたということを考えると、音楽に「のりしろ」があり、アバウトと言っては言い過ぎかもしれないが、東洋的とも言えるような「人間らしい、人間臭い」感覚がしっかり根づいていたということなのかもしれない。
同感です。
昨夜、偶々リヒター指揮によるバッハ「マタイ・パッション」の、あえて評判の良くない新盤のほう(79年録音・・・決して世間で言われているほど悪くはないと思った)の一部を聴きながら、発売されたばかりの今月号の雑誌を読んでいたら、鈴木祥子が、川端康成 著「山の音」の原作と映画版の、登場人物の「道ならぬ恋」のことについて書いており、その文章の最後の部分に「さすが!」と思わずシンクロしてしまいました。
・・・・・・仏教教典にはワールドリーパッション、という言葉が、ほぼ1ページにつき50回はあろうかと思うほどたくさん登場する(おおげさ。)それは人間の煩悩のこと。以前「PASSION」という曲を書いたことがあって、情熱(パッション)は破壊(ディストラクション)に通じ、慈悲(コンパッション)にも通じる、ということを云いたかったのだが、今考えると仏教的なテーマである、かもしれない。人はどうして熱情をもつんだろうか、叶わないと解っていて、どうして誰かを欲しいと、焦れてやまないのだろうか。
 今、その答えが少しだけ解る気がする。人間、はたえず闇と光の間で揺れるものだから。闇はどこまでも深く、光はあまりにも眩しく、こんな脆弱な肉体とココロのあいだを生きていかなきゃならない、永遠の過酷さを背負った生きものだから。
 そこから逃れたいと思い、救われたいと希い、人は(自分は、というべきか)どう仕様も無く恋をする、なすすべもなく、行き先も知らずに。それはもはや恋、というより宗教である。罪なのか間違いなのか、私にはわからない。その心の方向性を仏教は厳しく諌める。間違った情熱をもつな、求めるな。それはエゴの産物なのだ、と。・・・・・・CD Journal (ジャーナル) 2010年 11月号「鈴木祥子の33 1/3の永遠」より(116ページ)
http://www.amazon.co.jp/CD-Journal-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB-2010%E5%B9%B4-11%E6%9C%88%E5%8F%B7/dp/B0045JEHHO/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1287580933&sr=1-2
「Passion」鈴木祥子
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1889340

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
リヒターのマタイ新盤を聴かれていましたか!
僕も世間で言われているほど悪いものだとは思いません。
ご紹介いただいた鈴木祥子の言葉、おっしゃるように「さすが」ですね。僕は鈴木祥子というアーティストの音楽を聴いたことがありません。ましてや名前すら初めてでした。
少し勉強させていただきます。ありがとうございます。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » 追悼グスタフ・レオンハルト

[…] 僕は、バッハの鍵盤作品の中でも「平均律」や「ゴルトベルク」を差し置いて実に最高傑作なんじゃなかろうかと思ったことが幾度もあるほど「フランス組曲」が殊の外好きで、時にチェンバロで、時にピアノでというようにその時の気分に合わせて様々取り出して聴く。何だろう、解釈の幅が非常に広いというか、どんな演奏でも受容してしまう器の大きさと、そして多種多様な舞曲によってウキウキしたり、悲しくなったり、いろいろな感情がその中に聴いてとれるところがお気に入りの理由かもしれない。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む