ヴァントの最後の録音

wand_last_recording.jpg体裁を整えると、物事はそれなりに見えるようになる。一方で、見失ってはいけないのが等身大の自分自身。世間は基本的に「側」で判断するから、かっこうをつけていると「この人はできるはずだ」と勝手な判断をし、いろいろな「話」が次から次へと舞い込むが、結局すべてが中途半端に終わる可能性が高い。大事なのは「中身」。誰でも自分に与えられる時間とエネルギーは限られているから、余計な物は背負い込まず、「できること」を誠実にやっていくことだけ。とにかく惑わされず、軸がぶれないように常に意識すること。週が明けて、気のせいか少し流れが変わったように感じる。善し悪しの問題ではないから流れに任せておけばいいと思うのだが、「何のためにやるのか」という自己原点に立ち返ることは大切。

例えば、最晩年になってようやくその芸術が騒がれ出し、日本でも異常なほどの人気ぶりを示したギュンター・ヴァントなどは、若い時から等身大の自分を見失わず、朝比奈先生ではないが、愚直に自分の音楽というものを演奏し続けた結果があの状況を生み出したに過ぎず、聴衆のあの突然の熱狂ぶりは本人にしてみれば実に狐につままれたような感覚だったろう。「何を今さら」と本人が思っていたかどうかはわからないが、ただただ最後まで自分のやるべきことをひたすら追い求める、それだけ。それがヴァントの仕事だった。

最後の、手兵とのコンサートは力強い。90歳になろうとする巨匠の音楽とは思えないエネルギーに満ち溢れている。よもや3ヶ月半後に逝ってしまうとはこのときは誰も想像しなかったのでは・・・。

僕はこの音盤が発売されたとき即刻買い求めた。ジャケットのヴァントの顔が悲しげに映った。初めて聴いたときは「力強さ」よりも少し衰えた「弱さ」を感じた。ひょっとすると、それが年相応だったのかも。最後の力を振り絞っての、少し無理をした形での力演だったのかな・・・。

ギュンター・ヴァント・ラスト・レコーディング
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
・シューベルト:交響曲第5番変ロ長調D485
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団(2001.10.28-30Live)

ホルンの澄んだ美しい音色から泣ける。オーボエの悲しげな調子も手兵北ドイツ放送響ならでは。ヴァントは幸せだったろう。

久しぶりに付録のシューベルトを聴いた。実は、これほどの名演奏だったとは・・・。今頃気づいた。アンダンテ楽章はモーツァルト以上の優しさや哀しみを湛える。もともとこんな音楽なのか、それともギュンター・ヴァントの棒ゆえの情感か。メヌエット楽章は愉しい。長年連れ添った妻との円舞。

人が人として目指すべき姿・・・。
単なる体裁を作ろった音楽ではない、真実の音楽がここにある。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
晩年のヴァントや、ムラヴィンスキー、カルロス・クライバー、チェリビダッケ、朝比奈隆ら(コバケンも!)に共通するのは(ピアニストではアルゲリッチら)、レパートリーが極めて狭いこと。だからこそ、1曲1曲を繰り返し演奏し、解釈を深く掘り下げることができたんだと思います。ヴァントの場合、オペラにも背を向けていましたよね、たとえモーツァルトの歌劇であっても・・・。
それと、晩年のヴァントが恵まれていたのは、巨匠に対する人気の高まりと周囲の理解により、治外法権的にリハーサル時間を多く与えられたことなんだと思います。今のプロオケは、どこもユニオン(労働組合)によって徹底的にリハ時間が制限されており、一方売れっ子指揮者はスケジュールが超多忙でいろんな曲を指揮しなくてはならず、これではモダン奏法を用いようがピリオド奏法であろうが、没個性で最大公約数的、無難な解釈と演奏にならざるを得ません。
私がアマチュアオケの演奏を好むのは、こうしたことも関係しています。
先般話題にした、まだ我々は聴けていない噂のアマチチュアのショスタコ・オケ「ダスビ」
http://www.dasubi.org/
を例にとれば、調べてみると、2011年2月20日の定期演奏会に向けて下のような練習日程を組んでいます。
http://www.dasubi.org/schedule/schedule.html
どこのアマオケでもだいたい似たようなものですが、これだけ定演の曲目に時間をかければ、上手い下手は別にして、曲の解釈や、曲への愛情や愛着も、うんと深まって当然です。アマオケがプロオケよりもしばしば感動的な演奏を聴かせるのは、こうしたところに原因があります。ユニオンで練習時間と残業時間は厳しく縛られ、一方で次から次へと演奏会の準備に追われ、ビジネスライク、ルーティンワークに仕事をこなしていかなければならない、多くの現代の演奏家は実に気の毒です。
アドリブ主体のジャズなどと違い、同じ曲を時間をかけ練習し解釈を深めるクラシックの演奏家にとって、忙しすぎる現代社会は辛いですね。
忙しすぎ、深く考えることを許さず、ストレスの多い現代は、音楽を深めるのに逆行する社会です。
不幸なのは、毎日毎日膨大な音楽の洪水にさらされ、不感症ぎみになっている聴衆の側も同じでしょう。
忙しすぎるっていうのも、たしかに儲かるかもしれないけど、決して幸せなことだとは、私は思わないです(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ほんとにおっしゃるとおりですね。
>同じ曲を時間をかけ練習し解釈を深めるクラシックの演奏家にとって、忙しすぎる現代社会は辛いですね。
>不幸なのは、毎日毎日膨大な音楽の洪水にさらされ、不感症ぎみになっている聴衆の側も同じでしょう。
芸術はもともと道楽ですから、演奏する側にも聴く側にも精神的&物理的余裕が必要ですよね。
ダスビダーニャの演奏、ますます聴きたくなります。

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