ボニング指揮ロンドン響のグノー「ファウスト」(1966録音)ほかを聴いて思ふ

仲睦まじいリヒャルトとコジマ。

ホテル・ディッシュ泊。よく眠れた。朝も早くから軍楽の響きを聞かされたリヒャルトは、いたくご機嫌ななめ。やがて、彼ではなく連隊長のための演奏だということがわかり、ほっとする。演奏された曲目のうち一曲が魅力的な和声にもかかわらず、旋律がひどく浅薄なので不思議に思っていたところ、結局、バッハの前奏曲にグノーが旋律をつけた瞑想曲だとわかった。こうした陳腐きわまる思いつきにまで古の巨匠が手を貸してやっていることに、二人で大笑い。
(1873年4月22日火曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P615

おそらく今では世界中の誰もが馴れ親しんでいるバッハ=グノーの「アヴェ・マリア」。浅薄な旋律だとはよくぞいったものだが、だからこそ人口に膾炙する、普遍的な作品になったのだともいえる。
ワーグナーは、その晩年、小論「時間と空間における公衆」で、リストの「ダンテ」交響曲が正しく評価されないのは、当時の「淀んだ時の流れの中では時間と空間に適合しない」ためで、要は、大衆の芸術に対する理解力がもはや腐り切っていて、逆に言うなら芸術に未来はないと嘆くのだが・・・。

果たして彼が想像していた未来、すなわち現在の音楽界はいかに?
むしろ(どちらかというと浅薄な?旋律の)大衆音楽が世界を席巻している事実を知ったら彼はどう思うのだろう?

人の数だけ視点があるということを僕たちは忘れてはならない。
例えば、ワーグナーをはじめ、シューマン、リスト、グノー、ボーイト、などなど、多くの音楽家がこぞって音化しようと物語を描写した人類の至宝であるゲーテ畢生の大作「ファウスト」。作品は、発表の場を持つことで、そして、公衆に聴かれることで開かれ、より錬磨されるものだろう。それゆえにこそ、聴く側は偏見や先入観を捨て、無心に耳を傾けることが大切なのだ。

シャルル・グノーの「ファウスト」は、ドイツでは「マルガレーテ」というタイトルで上演されることが一般的だそう。つまり、ゲーテの「ファウスト」とは別物だという認識なのである。確かに、歌劇にはバレエの場面も挿入され、音楽は冒頭からあまりに軽妙、フランス的であり、ゲーテはもちろんのこと、ドイツの作曲家たちが目指したものとは随分異なる。ましてや、グノーが抽出したのは、「ファウスト」の第1部、それもファウストとマルグリートの恋愛悲劇にまつわる側面に焦点を当てているのだから、そもそも深遠な、宗教的崇高な側面は後退しているのである。

グノーの「ファウスト」はそれで良い。いや、むしろそれだから(ひとつの娯楽的オペラ作品として)面白いのである。

・グノー:歌劇「ファウスト(マルガレーテ)」(1852-59)
フランコ・コレッリ(ファウスト、テノール)
ニコライ・ギャウロフ(メフィストフェレス、バス)
ジョーン・サザーランド(マルグリート、ソプラノ)
ロベール・マサール(ヴァランタン、バリトン)
マルグレータ・エルキンス(シーベル、メゾソプラノ)
モニカ・シンクレア(マルト、メゾソプラノ)
レイモン・マイヤー(ワーグナー)
アムブロジアン・オペラ・コーラス
リチャード・ボニング指揮ロンドン交響楽団(1966.6&7録音)

開放的な曲調が心地良い。コレッリ、ギャウロフ、サザーランドなど、一流どころの歌手たちの「歌」を聴かせるラブ・ロマンス。(陳腐というレッテルを貼られた)グノーの面目躍如たる旋律の宝庫(ファウストとマルグリートの愛の成就する第3幕終結の音楽などその最たるもの)。

一方、メフィストフェレスを中心にした、アリゴ・ボーイトの歌劇「メフィストーフェレ」。こちらは、ワーグナーの影響を受けているだけあり、より音楽に比重が置かれる。しかしながら、その全体像はやはりイタリア的で、明朗快活だ。

時折はあの御老体に、どうにもひどく会いたくなる
喧嘩別れにならぬよう用心 用心。
あれほどの大旦那にしては 何とも見上げた過多よ
悪魔相手にあれほど人間らしく口をきいて下さるとはな。
「天上の序曲」
ゲーテ/柴田翔訳「ファウスト 上」(講談社文芸文庫)P32

プロローグだけを収録したバーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤でも、メフィストーフェレ役はニコライ・ギャウロフだ。管弦楽の冒頭から音楽は堂々と、想いを込めてうねる。

・ボーイト:歌劇「メフィストーフェレ」(1868/75)~天上のプロローグ
ニコライ・ギャウロフ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
グンポルト教会聖歌隊
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1977.4録音)

オペラの幕開けであるにもかかわらず、あまりに壮大でまるで終幕のような音楽に誰もがまずは驚くだろう。25分の間、音楽は揺れ、バーンスタインは渾身の指揮でオケと合唱をドライヴする。

そして、フランツ・リストの大作「ファウスト」交響曲。
晩年の義父リストの変貌ぶりに落胆したワーグナーは、少なくとも彼の「ファウスト」交響曲には一目置いていたように思われる(もちろん「ダンテ」交響曲にも)。

夕方、父の作品について語り合った。リヒャルトは父の精神の変わりようにとても胸を痛め、《ファウスト交響曲》への愛着を語った。《マゼッパ》でさえ、そこには気宇壮大な趣きがあるという。それに比べて《タッソー》などのとっぴな讃歌調や、トライアングルの使用、銅鑼の響き、スネアドラムの音は聴くに耐えないと嘆く。
(1869年8月2日月曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記1」(東海大学出版会)P279

ワーグナーにとって外面的効果よりも(月並みな言葉だが)精神性が重要なのであろう。その上で必要なものが、聴衆を感化する緻密な管弦楽法だ。

父の《ファウスト交響曲》のある箇所を調べていたリヒャルトは、こう言った。「聴衆は伴奏を聴かず、歌Cantoにだけ神経を集中させるものと決めてかかり、こんなふうに伴奏を進めることなど、わたしには思いもよらない。今日は一箇所にずいぶん時間を費やした。だれも耳にとめないようなところだが、そんなことはわたしにとって問題ではない。そこにこそ、ほんとうの仕事の喜びがあるのだ」。「聴く人が聴けば、わかりますわ。手の込んだ仕事ぶりが感じとれますもの」と、わたし。するとリヒャルトは、「バッハにもひどく生硬なところがある。だが彼の場合は、ひとつひとつの声部を動かす一貫した論理からそれが生じているのであって、杜撰なせいではない」。
(1869年8月3日火曜日)
~同上書P281

何事も杜撰であってはならない。

・リスト:ファウスト交響曲S108(1854-80)
ケネス・リーゲル(テノール)
タングルウッド祝祭合唱団
レナード・バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(1976.7録音)

3つの楽章は、それぞれファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスの描写で、いずれも長大だが、楽器の息の長い掛け合いが主の緩徐楽章「グレートヒェン」が切なくも美しい。音調は官能をもちながら清廉。もちろん第1楽章「ファウスト」も、バーンスタインの勇猛さを前面に押し出す(どこか能天気でもある)英雄的な指揮が素晴らしく、喝采を送りたい。

ただし、どの音楽を耳にしても、ゲーテの原作を超えていない。
超えるのはおそらくとても困難だろう。果たしてそれは、ゲーテ自身が望んだようにモーツァルトの手によってのみ可能だったのかも。

 

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