「希望」のベートーヴェン&ブルックナー

bruckner_6_furtwangler_melodiya.jpg聴覚を失った後のベートーヴェンの作品の多くは神々しいまでの異彩を放つ。晩年のピアノ・ソナタ、あるいは弦楽四重奏曲などの切り詰められた音の世界において特にそれが顕著で、時に「無」や「空」という言葉に置き換えられるほど精神的な高揚感と安息の気分を聴く者に与えてくれる力を秘めている。昨日の昼公演で、僕は思いがけず「昇天」という言葉を使ったが、確かに昨日の愛知とし子の演奏には、コメントをくださった雅之さんがおっしゃるように「希望」という形容こそが相応しい。偶然にもその後に続いたクララ・シューマンの「束の間の小品」との連続性が生み出す、淀んだ空気をクリアにするような、不安定で不浄な世の中の気を一変するような、そんな前向きな何かが感じられた一瞬だったと、1日経過した今振り返ってみてなお感じる。なるほど、音が聞こえなくなったベートーヴェンは決して絶望したわけではないのだ。そのことは、1802年10月に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた時点で、実は彼の中ではすでに解決していること。何より、以降生み出される中期の傑作群を含め、ベートーヴェンの作品ほど希望と平和に満ちたものはないことがそれを証明する。まさに「地上の楽園」の誕生を目指して、楽聖は音楽の創造によりそのことを実現しようと本気で考えていたのではないか、そんなことをフルトヴェングラーが戦時中に手兵ベルリン・フィルを指揮して残した第5交響曲を聴きながら思った。これほど高揚し、希望に溢れた、「前のめり」の演奏は、フルトヴェングラーの数ある同曲の中で随一ではないか。

しかし、驚いたことに、それ以上に前向きで希望に溢れた演奏が残されていたことを数分後にあらためて僕は知る。完全に見落としていた、あるいは見過ごしていた、そんな録音。

ブルックナー:交響曲第6番イ長調(第2楽章~第4楽章)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1943.11.13Live)

長い間、フルトヴェングラーのブルックナーは「いまひとつ」と決めつけていたが、この第6交響曲を繰り返し聴く限りにおいて、これほど「自然」に順化し、希望に満ち、前向きに(ある意味前のめりに)させてくれる音楽、あるいは演奏表現は珍しいのではないかと思える。特に、昨日のあの猛烈なシューマンのソナタや、前進あるのみといわんばかりのベートーヴェンを聴かされた後だから、余計にそう思うのか・・・。ともかく戦時中のライブがこれほどまでに明瞭な録音で残されていること自体が信じ難い(特にこのメロディア原盤による音盤の音質は素晴らしい)。楽員の譜面をめくる音はもちろんのこと、聴衆の咳払いまでしっかりと捉えられており、気がつくと目の前で実際に演奏されているのではないかと錯覚を起こしている自分に気づく。それくらいにすべてが生々しい。第二次世界大戦中のナチス・ドイツにおいて、これほどまでに崇高でありながら、一方で地に足のついた演奏ができたことが大袈裟だが奇跡に近い。もはや第1楽章の欠落などどうでも良い(もちろん将来発見されることを望むが)。

フルトヴェングラーの命日にあたる11月30日にはエリアフ・インバル指揮都響によるブル6を聴く。ますます楽しみ。


2 COMMENTS

雅之

こんばんは。
>長い間、フルトヴェングラーのブルックナーは「いまひとつ」と決めつけていたが、この第6交響曲を繰り返し聴く限りにおいて、これほど「自然」に順化し、希望に満ち、前向きに(ある意味前のめりに)させてくれる音楽、あるいは演奏表現は珍しいのではないかと思える。
ほう、そうですか! 私も長い間フルトヴェングラーのブル6録音は聴き直していませんでしたが、岡本さんのブログを読んで、このCD、私もどこかに仕舞ってあるので、もう一度聴き直したくなりました。
フルトヴェングラーら、当時の表現主義の巨匠たちの演奏スタイルは、時代背景抜きに語ることはできませんよね。両大戦の塗炭の苦しみで、すっかり疲労困憊した人々の心が、《高揚し、希望に溢れた、「前のめり」の演奏》を憧れ求めたのは当然でしょう。《これほど「自然」に順化し、希望に満ち、前向きに(ある意味前のめりに)させてくれる音楽、あるいは演奏表現》でのブルックナーを、当時の聴衆の心は求めたのですね。
第二次世界大戦が終わり、平和な時代が訪れると、表現主義より冷静な新即物主義の演奏スタイルが聴衆に好まれていったのも、ゆえなきことではありません。平和になれば、人々の求めるものは自ずと変化するのですから。また、録音が発達し、演奏の聴衆との出会いが変質し、一期一会ではなくなることが多くなっていきますし・・・。
マーラーが初演の指揮をしたというブルックナーの6番を、マーラー→フルトヴェングラー→現在のインバルといった、表現主義志向の指揮者の系譜で考察してみるのも、意義深い発見が可能なのではないでしょうか。その意味で、インバルの実演を聴かれるご経験は羨ましいです。
調べてみると、1943年11月13日の翌日は、バーンスタインが、風邪のため演奏会の途中でニューヨーク・フィルハーモニックの指揮ができなくなったブルーノ・ワルターの代役をつとめ、CBSラジオを通じて全米に評判を呼んだという、記念すべき日ですね!(笑) 当日の、シューマン「マンフレッド序曲」他の録音が残っていますよね。じつに若々しい指揮です。
Leonard Bernstein’s New York Philharmonic Debut / Sunday, November 14, 1943 [Live, Import, from US]
http://www.amazon.co.jp/Leonard-Bernsteins-Philharmonic-Sunday-November/dp/B000823APM/ref=sr_1_2?s=music&ie=UTF8&qid=1290945761&sr=1-2
バーンスタインもまた、晩年は特に表現主義寄りになり、人類の「愛」と「希望」のために尽力した巨匠でしたね。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>当時の表現主義の巨匠たちの演奏スタイルは、時代背景抜きに語ることはできませんよね。
おっしゃるとおりだと思います。ブルックナーに限らずフルトヴェングラーの演奏はどれも混沌とした時代だからこその産物だと思います。
>マーラー→フルトヴェングラー→現在のインバルといった、表現主義志向の指揮者の系譜で考察してみるのも、意義深い発見が可能なのではないでしょうか。
そういう視点での聴き込みは興味深いですね。30日は雅之さんの分まで堪能してきます。
ところで、気がつかなかったのですが、このブル6の翌日がバーンスタインの鮮烈なデビューの日だったんですね!!残念ながらこの音盤持っておらず、聴いておりません。歴史聴きをするようになると、欲しくなってきます(苦笑)。

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