「中庸」の音楽

mendelssohn_4_toscanini.jpgエルーデ*サロン新年最初の勉強会。2011年の抱負をそれぞれ発表。各々が持ち寄った料理を食べながらしばし歓談。飛躍の年になるだろう。
「飛躍」といっても決して無理はしない。これまで準備してきたことを自然体で形にしてゆく。「脱力」。音楽の世界でもスポーツの世界でも、どんな場合でも大切なのは余計な力を抜くことだという。ある人はそれを「0(ゼロ)の発想」という。「何もない」というのではなく、プラスでもマイナスでもない、中庸の状態。「ただそこに存在する」ということ。まさに「今」、「ここ」という考え方。しかしそれは、言うは易し、行うは難し。頭でわかっていたって、現実はなかなかそんなにはうまくゆくまい。

いつの頃からか僕は「目立つ」ことに抵抗を覚えるようになった。幼少の頃は無意識に自分らしさを表現していたにも関わらず。いつのどんな出来事が原因なのか、それは振り返り、探ってみないとわからないが、いずれにせよある時点から自身をなるべく表に出さないようコントロールしてきた。

だから僕は自分の抱負や希望、目標を人前で話すことは大の苦手だった。自分のこと、自分の感情を表に出すことは特にどうしていいかわからなかった。

別に無理に目立つこともないのだし。でも、無理に自分を抑えることもないとわかった。「傲慢」でもなく、必要以上に「謙虚」でもなく、ありのままの自分を出せる、そんな状態にいつもいたい、そんなことを思った。

僕はメンデルスゾーンの音楽に「中庸」を発見する。純粋な音楽が、美しい楽音がただそこにある。ロベルト・シューマンは同時代の重要な作曲家の第一にメンデルスゾーンを挙げているが、その理由がよくわかる。

メンデルスゾーン:
・交響曲第4番イ長調作品90「イタリア」
・交響曲第5番ニ短調作品107「宗教改革」
・八重奏曲変ホ長調作品20~スケルツォ
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団

色気のないその録音に若い頃は嫌気がさし、トスカニーニのどの音盤も僕の心を捉えなかった。でも「イタリア」交響曲だけ(いや、というよりメンデルスゾーン作品)は最初から何かが違っていた。モーツァルトの三大交響曲、ベートーヴェンの9つの交響曲、ブラームスのそれ、あるいはワーグナーの管弦楽曲集、高校生の頃、フリークだった友人から借りて聴いてみてもどれもピンとこなかったのに・・・。
何だろう、これは・・・。
トスカニーニは楽譜に忠実というイメージがあるが、決してそうではない。極めて個性的で、聴けば聴くほど実に味わい深い。そして、力づくでない、「中庸」(無駄な動きがない)がその内にある。彼の音楽が「普遍性」をもつ理由はそこにあるのかもしれない。名盤なり。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>トスカニーニは楽譜に忠実というイメージがあるが、決してそうではない。極めて個性的で、聴けば聴くほど実に味わい深い。そして、力づくでない、「中庸」(無駄な動きがない)がその内にある。
なぜ、トスカニーニやミュンシュ、クレンペラー、あるいはサヴァリッシュはメンデルスゾーンが得意で、フルトヴェングラーやメンゲルベルク、ワルターは苦手(おそらく)だったのか? このへんにも、メンデルスゾーンの音楽の特質を考察するときのヒントがありそうですよね。ユダヤというキーワードとは別に・・・。
ちなみに、以前にもコメントで述べたことがありますが、アマオケにとっては、「イタリア」は、聴くだけの人は想像できないくらい難度が高く、演目に採り上げにくい曲です。
「中庸」って、ある意味黄金バランスなので、「極端」よりも難しいかもです(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
>このへんにも、メンデルスゾーンの音楽の特質を考察するときのヒントがありそうですよね。
>「中庸」って、ある意味黄金バランスなので、「極端」よりも難しい
おっしゃるとおりですね。いずれも勉強し甲斐、大いにあります。

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