グレ、グレ、グレ、・・・

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3月20日(日)に東京フィルが創立100周年記念事業の一環でシェーンベルクの「グレの歌」を、それもオリジナル編成で採り上げるようだ。ちなみに、原典ということはオーケストラ150人、合唱120人、独唱5人が1度に舞台にあがることになるのだが、その壮大で華麗なステージを想像するだけでもう居ても立ってもいられなくなる。滅多に上演されない演目だから何が何でもチケットを押さえて参戦すべきなのだが、いかんせん会場がBunkamuraのオーチャードホールときた。音楽を生で聴く場合、当然ながらホールの音響効果が演奏の良し悪しまで左右する。上野の文化会館も席によってはいただけない。NHKホールは、広いだけでほぼどの席もだめだから論外。オーチャードホールもよほどのプログラムでない限り絶対に行きたくないと決めている会場だから悩む。当日その場にいることができたという単なる「思い出」のためだけなら有無を言わさず「GO」なのだが、音楽そのものを堪能して、感動したいのだから別(昔、チョン・キョン=ファがミョンフン&聖チェチーリアをバックにオーチャードでブラームスをやったときも音楽がまるで伝わらずやきもきしたことを思い出す)。「グレの歌」が実演で聴ける機会はそうそう滅多にないだろうから、会場云々と言っている場合じゃないのだけど。


新ウィーン楽派についてはあまり詳しくない。特に若い頃は、十二音技法といういかにも前衛的な音楽はまったく好きになれなかった。年を経るにつれ随分理解できるようになったものの、歴史的背景や作曲家の生い立ち、プロフィールまでを詳細に調べ尽くした機会がこれまでなかった。昨日ブルックナーの室内楽版第7交響曲を聴いたことで、一体どういう成り立ちでこのアレンジ版ができたのかいろいろ調べてゆくうち、シェーンベルクが主宰する「私的演奏協会」の詳しいことを知り、とても興味を持った由(クラシック音楽講座なんて開きながら、実にまだまだ知らないことは多い。一生懸けても全てを知り尽くすのは無理だろうが、何かの縁で知的好奇心を刺激され、興味が拡がっていくことは大歓迎)。

シェーンベルクについては大学生になってからご多分にもれず「浄夜」から聴き始めた。このいかにも後期ロマン派風の音楽に一時期イカれた。その流れで「グレの歌」を聴いたが、マーラーやワーグナーの音楽にはまっていた時期だから、もう大変。寝ても覚めても「グレ、グレ、グレ」(笑)。今夜は久しぶりに「グレの歌」。

シェーンベルク:独唱、合唱、管弦楽のための「グレの歌」
ジークフリート・イェルザレム(テノール)
シャロン・スウィート(ソプラノ)
マリャーナ・リポフシェク(メゾ・ソプラノ)
ハルトムート・ヴェルカー(バリトン)
フィリップ・ラングリッジ(テノール)
バルバラ・ズーコヴァ(語り)
ウィーン国立歌劇場合唱団
アルノルト・シェーンベルク合唱団
ブラティスラヴァ・スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

今やいろいろと音盤は出ているが、この周辺の音楽を振らせたら右に出る者はなかなかいないだろうアバド。20年ほど前に録音されたこのCDは長らく僕の愛聴盤。本来なら濃厚で重みのあるオーケストレーションを施されているであろうこの楽曲を、これほどまでに「あっさり」、「淡々と」進めながら、なおかつ聴後の感動が並みではない演奏は随一。大音響なのだが、透明で室内楽的(といっていいかな)・・・。

3月20日(日)、やっぱり行きたい!!!
けど、少し悩んでみよう(笑)。完売になることはまずないだろうから・・・。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。
オーチャードホールでは、私も何回も音楽を聴いた体験がありますが、おっしゃるように音響的にひどいホールですよね。楽屋も狭く、演奏する側にも評判悪いようですし。
>「グレの歌」が実演で聴ける機会はそうそう滅多にないだろうから、会場云々と言っている場合じゃないのだけど。
当然だと思います。要は、聴く側に、どれだけ作品に関わろうとする主体的意志や意気込みがあるかだけの問題です。もし天体観測が趣味で、何十年に一度の彗星、大流星雨などを観測できる日が来るなら、少々空気の透明度が悪かったり、月があって空が明るかったりするなどの悪条件であろうと、千載一遇のチャンスを見送る気にはならないでしょう。
アバド指揮の「グレ」というと、ご紹介の録音の他に、日頃よく聴いて楽しんでいるDVDがあります。
ベルリン・フィル~ガラ・フロム・ベルリン1999《グランド・ファイナル》
1. 交響曲第7番~第4楽章(ベートーヴェン)
2. 交響曲第8番~第4楽章(ドヴォルザーク)
3. 交響曲第5番~第5楽章(マーラー)
4. 「火の鳥」~カスチェイ王の魔の踊り/こもり歌/終曲(ストラヴィンスキー)
5. 「ダフニスとクロエ」~終曲 全員の踊り(ラヴェル)
6. カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」~アレクサンドルフのプスコフへの入場(プロコフィエフ)
7. 「グレの歌」~終曲 夏の嵐の荒々しい狩/仰げ太陽を(シェーンベルク)
8. 喜歌劇「グリグリ」~序曲/フォリー・ベルジェール・マーチ/督促ギャロップ(リンケ)
9. スポーツ宮殿ワルツ(トランスラトイル)
10. スパークリング・シャンペン(フィッシャー)
11. 歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」~序曲(ニコライ)
12. 菩提樹の木陰にいる限り(コロ)
13. ベルリンの風(リンケ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB~%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B31999%E3%80%8A%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%80%8B-DVD-%E3%82%A2%E3%83%90%E3%83%89-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA/dp/B00006JL7E/ref=sr_1_46?s=dvd&ie=UTF8&qid=1296078407&sr=1-46
これだけ多くの大曲のフィナーレを続けて聴かされると、さすがに満腹になりますが、映像を観ながら聴くといろんな発見があり、興味が尽きない、楽しく飽きないDVDです。
※ところで・・・、
先日のコメント欄でのやり取り
http://classic.opus-3.net/blog/cat49/post-629/index.php#comment-4501
で、ずっと頭を離れない疑問がありまして・・・。
第三者が、赤の他人を「普通の人」「凡才」などと決めつけるのって、何の意味があるのでしょう?
そもそも「天才」って何なのでしょう。
【天才】天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能を持っている人(広辞苑)
じゃあ天性の才能って何の?
音楽?絵?文学?スポーツ?色道?金儲け?
誰もが隠れた才能を持っていて、それを開花させるのを助けるのが岡本さんの仕事ですよね。隠れた才能ってどんな分野であっても「天才」なのでは?
晩年になってはじめて他人さまから自分の生きざまへの共感をいただき、それでお金儲けする才能は「天才」ではないのですか?
逆に、人さまから認められないと「天才」ではないのでしょうか?
それと、滑稽ってそんなに悪いことですか?
ウィキペディア「天才と凡人(常識)」の項より
天才といえば聞こえが良いが、上述のように、アンバランスに偏った才能の持ち主であるため、芸術、スポーツ、学問いずれの分野でも、価値観も非常識であるケースが多い。天才芸術家による薬物中毒汚染や金銭感覚の逸脱は余りにも有名であるが、道徳的にも法的にも非常識で、故に善悪の価値観すら欠如している者も多く、結果として、天才による、周囲からの物笑いとなるような「奇行」は、数多い。
良く知られている「天才の奇行」の逸話には、ゴッホが、自画像を描く際に「自分の耳が邪魔だ」と言って自ら耳を切り落とした、といったものがある。サルバドール・ダリは1936年のロンドン講演にて演壇に潜水ヘルメットを被って登場するも呼吸できずに卒倒、居合わせた聴衆は彼の「息が出来ない!」とする仕草を含め、唯のジョークだと勘違いしていたという逸話が伝えられている。ジミ・ヘンドリックスは所属していた軍で自慰行為と薬物、ギターにしか興味を示さない劣等兵で、ある日トイレの個室で自慰行為をしていた所を上官に目撃され、除隊処分にされている。更に、1960年代の時点でアフリカ系アメリカ人であるにも拘らず、専用の自家用飛行機を所有する程の成功を修めた「ソウルミュージックの父」ジェームス・ブラウンは、或る晩自宅でコカイン吸引中に、3人目となる妻とケンカをし、公園のトイレ内で「便所でクソしたヤツは誰だ~っ!!」と怒鳴って便器に向かってマシンガンを乱射し、駆け付けたパトカーから逃れるために車でカーチェースの挙句、ジョージア州から隣のサウスカロライナ州まで逃走したもののガス欠で捕まり、その後1991年までの3年弱を刑務所で過ごす。・・・・・・
「天才」「凡才」とか「変わった人」「普通の人」とかいう一般的な色分けは、私にはステレオタイプにしか思えないのですが。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
「グレ」の件、ありがとうございます。一押しが欲しかったのです(笑)。やっぱりこういう機会は逃しちゃいけないですね。
あと、ご紹介のアバド盤については僕は観ておりませんが、アバドの相変わらずの見事な企画力の賜物ですね。観てみたいです。
それと、最後の「疑問」について。
>第三者が、赤の他人を「普通の人」「凡才」などと決めつけるのって、何の意味があるのでしょう?
意味ないですね。
>滑稽ってそんなに悪いことですか?
悪いことではないと思います。
誰もが何かの分野で「天才」だと思います。本人がそれに気づかない、あるいはメンタルブロックがかかってそれを活かしきれない、または周囲が結果的に潰してしまっているなどの理由で開かれない場合も多々ありますが。
それと世間が知らないだけで、世の中には「天才」といわれる人はいっぱいいるのでしょうね。水木氏などはつい数年前までは知る人ぞ知る「天才」だたのかもしれません。
先日僕が「普通」と表現したのは、本人はあくまで「普通」だと思っていると思うんです。「天才」というのはそれこそ第三者の勝手な評価です。また「滑稽」というのも本人はそうは思っていないと思いますから。
こうやって書いていて思います。
そもそも議論(ディスカッション、ディベートなど)自体が物事を二元論的に捉えないと成り立たないものなんだなと。
一つの事象に対していろんな考え方、意見があり、ひとつひとつを大事に受け止め、受け容れる姿勢ってやっぱり大切だなと。
本日もありがとうございます。

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雅之

>そもそも議論(ディスカッション、ディベートなど)自体が物事を二元論的に捉えないと成り立たないものなんだなと。
もともと西洋文明の根幹自体が二元論で成り立っていますよね。西洋音楽も当然そうで、ソナタ形式なんかも二元論の典型ですし、長調・短調もそうですよね。
シェーンベルクらが「グレの歌」作曲前後くらいから「無調の時代」に突き進んだのも、音楽史での必然だったわけです。
20世紀になって顕著になった、西洋文化の東洋文化への憧憬の流れに繋がるわけです。

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岡本 浩和

>雅之様
>20世紀になって顕著になった、西洋文化の東洋文化への憧憬の流れに繋がるわけです。
おっしゃる通りですね。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » カール・ベームはやっぱりライブの人だ

[…] ドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」は、フランス語独特の節回しと作曲家特有の官能性を秘めた音楽が絡み、極限の静けさの中にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」以上のエロスの芳香を漂わす(こちらはワーグナーの呪縛を完全に振り払った)。 シェーンベルクが同じ頃に同じ戯曲を題材にした作った交響詩は、まだまだワーグナーやマーラーの影響下にあり、「浄夜」や「グレの歌」ともども大変に聴き易い。こちらも極めて官能的な音楽だが、ドビュッシーの方法とは真逆。大管弦楽を使って聴く者を確かに翻弄する。なるほど、地域性というか言語の違いというか、そのあたりも突っ込んで研究すると面白いかも。僕は長い間ドイツ音楽至上派だったからほんの最近までドビュッシーは眼中になかった。そのことが今となっては随分損をしたと後悔。やっぱり勝手な「思い込み」はいかん。 […]

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