シューベルトの遺作にみる「現世肯定」

schubert_pollini_d960.jpg「人の月を看るは、皆徒に看るなり。須らく此に於いて宇宙無窮の概を想うべし」
世の人々が中秋の名月を眺めるのは、総てただ気がなくぼんやりと眺めているだけである。観月の時には、宇宙の広大無限なありさまを、よく思い至らなければいけない。(久須本文雄訳)

かれこれ10数年前、ある先輩から佐藤一斎著「言志四録」を読むよう奨められ、以来僕の座右の書になっている。上は、1815年、すなわち一斎44歳(今の僕と同年齢)の時、中秋の名月の下に記した言葉である。

自分という存在は宇宙から見たらちっぽけなもの。広大な宇宙に対して人間は一人一人が小さな宇宙。自分の中に拡がる無限のありさまを想像し、可能性を追求することが大事なのだと気づきなさいと教え諭してくれているようだ。

シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)

執拗に繰り返される第1楽章第1主題。夢うつつの中で、現世に固執し愛する人との別れを惜しむかのようにゆっくりと囁くように紡ぎだされる魅惑的な旋律。
1828年9月、死の2ヶ月前のシューベルトは健康が思わしくないながら、彼のピアノ・ソナタの総決算ともいうべき3曲を極めて短期間で書き上げた。そのまさに最後を飾る第21番変ロ長調D.960の青白い「不健康さ」を見事に表現しきったのは内田光子女史。原則的にシューベルトのソナタを聴く時、内田盤以外を顧みることはもはやなくなったが、今日はあえてポリーニ盤を取り出す。

僕がこの楽曲と初めて出会ったのは、ポリーニが1987年にDGに録音したCDによってだが、正直彼の演奏に全く感化されず、この素晴らしい音楽のことを「ほぼ知らずに」生きてきた。そして、実は大変な名曲にして大傑作なんだと気づかせてくれたのが件の内田光子盤なのである。ポリーニの演奏は、あまりに健康的で見通しが良すぎ、この時期(すなわち史の2ヶ月前!)のシューベルトの「心」にはそぐわない。しかしながら、約束されない未来を想像しながら、あくまで明るく希望を持って病と闘おうとしていたシューベルトの「現世肯定」の創作物だと考えるなら、このポリーニの解釈(解釈というよりポリーニ天性の楽観性というべきか)は正しいのかも(それに、付録の小品、すなわちアレグレットハ短調D.915、3つの小品D.946の出来は意外や意外、素晴らしい)。

ちなみに、一斎が月を見て前述の録を残した1815年、遠くウィーンの地に住むフランツ・シューベルトは、彼の代名詞ともいうべきリート(歌曲)を爆発的に(150曲近く!)創造した。まさに無限の拡がりともいうべきクリエイティビティ!

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