シュナーベルのベートーヴェン ソナタ「月光」(1934.4.23録音)ほかを聴いて思ふ

何と戦前のレコーディング。
ミスタッチも含めた、おそらく素録りの、むしろ臨場感。
もう少し浪漫に偏っても良かったのではと思わせる外連味のなさ。
思ったほど時代がかっておらず、実直かつ質実剛健な模範演奏。もちろん、音の一粒一粒には魂が乗る。ベートーヴェンはこうでなければならない。

満月の春分は19年ぶりだそう。
あまりに大きな月に僕はときめいた。

月を愛で、耳にしたアルトゥール・シュナーベルの「月光」ソナタの軽々とした、しかし、意味深い演奏に感応した。ベートーヴェンの音楽は大自然と共鳴する。ならば表現する上で「無理」があってはだめだ。その点、シュナーベルの再生する音楽は、脱力の極致であり、心地良い。

極美は「田園」ソナタ。(いよいよ難聴がひどくなる時期であるにもかかわらず)平静な、情感豊かな音調が全編を支配するこの音楽を、シュナーベルは無骨でありながら思いを込めたタッチで感動的に描く。

僕は今まで幾度か創造主を呪った。彼は己が創造物を最も取るに足らぬ偶然の手に任せる。そのためしばしば最も美しい花が吹き散らされ、折られてしまうのだ。考えてもみよ、僕の最も貴重な所が、聴覚が、ひどく衰えてしまっているのだ。君がまだ僕のところにいた頃から、その徴候に感づいていたが、僕は黙っていた。ところが益々悪くなるばかりだ。もう一度良くなるかどうか、もう少し経ってみなければ判らない。
(1801年7月1日付、カルル・アメンダ宛)
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(上)」(岩波文庫)P77-78

難聴こそが、あるいは、そこから生じる不安がベートーヴェンの破格の創造力の源泉だ。五感を使えなくなった人間は、心の目で見、心の耳で聴くしかないのだから。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調作品27-1(1800-01)(1932.11.1録音)
・ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2「月光」(1800-01)(1934.4.23録音)
・ピアノ・ソナタ第15番ニ長調作品28「田園」(1801)(1933.2.17録音)
・ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調作品31-3(1802)(1932.3.25録音)
・ピアノ・ソナタ第19番ト短調作品49-1(1795-97)(1932.11.19録音)
アルトゥール・シュナーベル(ピアノ)

緩徐楽章を持たない(やはり彼には苦悩はあったのだ)ソナタ変ホ長調作品31-3は、いずれの楽章も軽やかに、テンポ良く進められる分、乱れはあるが、そんなことは一切気にも止めず、シュナーベルはベートーヴェンの内なる世界を見事に描写する。第3楽章メヌエットの悲哀。ベートーヴェンがソナタにメヌエットを使ったのはこれが最後だ。

ロックギターに信じられないほどの革命をもたらし、あっけなくドラッグで死んでいったジミ・ヘンドリックスに「月が青けりゃ薬をやるさ」や「月の光を呑みほしたい」の文句があるのを知ったときは、これはなんだか見捨てられない符牒を感じたが、そうでなくとも、たとえばキング・クリムゾンの『ムーン・チャイルド』、デビッド・ボウイの『ムーンエイジ・デイドリーム』、ピンク・フロイドの『ダークサイド・オブ・ザ・ムーン』からプリンスの『チェリームーン』にいたる、ちょっと有名すぎるロック・ムーンの砲列には、イドだかエスだかは知らないが、もともとアルタード・ステーツ(変成意識)のひとつやふたつが奥深く表象されているはずなのだ。ましてやジャケットに満月をあしらったTレックスのマーク・ボランにおいてはなおさらだ。きっと音と月光の関係には、やはりベートーヴェンのソナタ『月光』以来の因縁というものがひそんできたというべきなのだろう。
松岡正剛「ルナティックス—月を遊学する」(中央公論新社)P58

なるほど、松岡さんの指摘する視点で鑑みると、シュナーベルの弾く「月光」ソナタには、狂気が足りないのかもしれない。特に第3楽章プレスト・アジタートに潜む狂気の抽出が。

人気ブログランキング


10 COMMENTS

ナカタ ヒロコ

 シュナーベルのCDを聴く機会をくださり、ありがとうございました。ベートーヴェンのソナタ演奏の原型を創った人だ、と聞いていました。昔の、モノラルの録音なのに、一音一音の響きの充実感は何なのでしょう?昔のピアノだからでしょうか。時々速すぎてついて行けない箇所や、そこまで強く叩かなくても、と思ってしまう箇所はありますが、どんなに速くても音に表情があり、フレーズに説得力があって、剛と柔のメリハリは、ベートーヴェンの雄々しさと優しさが如実に伝わってくるようでした。また、スピードが速いがゆえに、骨太のアウトラインのようなフレーズが浮き上がって聞こえてくる時もあります。もしかしたら、ベートーヴェンがピアノを弾いたらこんな感じだったのではないか、と思いました。
 それにしても、作品31-3のメヌエットは、比較的ゆったりとのどかな感じがするのですが、そこに「悲哀」を感じられた岡本様の感性はただ者ではない、と思うのですが、このメヌエットの悲哀について、少し教えていただけたら、と思います。
 今ひとつ、「ソナタにメヌエットを使ったのは最後」とのことですが、20番に「テンポ ディ メヌエット」という楽章がありますが、これはメヌエットには当たらないのでしょうか? 

返信する
岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

昔のSPレコードはすごく丁寧に録音されていた感じですよね。現代のテクノロジーと合わせると吃驚するくらいの音質になることがわかります。「ベートーヴェンがピアノを弾いたらこんな感じだったのではないか」という感想、同感です。

メヌエットの悲哀は、あくまで個人的な感覚なので説明できないです。すいません。ただ、ひょっとすると僕の場合、最初に聴いたのが40年前で、それがバックハウスの最後の演奏会の実況録音盤だったことが影響しているかもしれません。というのも、ご存じのように作品31-3は第3楽章で気分が悪くなり、一旦舞台に引っ込んだバックハウスは再びステージに戻った後も結局終楽章を弾かず、シューマンの幻想小曲集からのいくつかを代りに弾いたという経緯があります。あの第3楽章は、何とも言葉で表現し難い、お別れのようなそんな印象がいまだにあるのです。

「テンポ・ディ・メヌエット」はメヌエットのテンポで=メヌエット風にということですから、速度記号であって厳密にはメヌエットではないと思います。

返信する
ナカタ ヒロコ

岡本 浩和 様

 メヌエットのこと、わかりました。ありがとうございました。
ついでに、すみません、ベートーヴェンがメヌエットを使ったのが18番が最後なのには、何か意味が推察されますか?

返信する
岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

作品31-3が1802年の作曲で、ちょうどその頃例の「遺書」があるわけで、「遺書」を機にベートーヴェンに覚醒が起こったように僕は考えています。
あくまで私見、空想ですが、フランス革命後、世の中が貴族社会から市民社会に移り行く中で、ベートーヴェンの覚醒意識が、いわゆる貴族のための舞踊曲であるメヌエットを外そうという方向に行ったのではないかと勝手に思っております。

返信する
ナカタ ヒロコ

岡本 浩和 様

 わー、面白いですね! 「庶民はドイツ舞曲しか踊れなかった」ということが、モーツァルトのドイツ舞曲のエントリー記事にも書かれていましたね。19番以降、ベートーヴェンの意識が市民の方へ向いたのですね。ナポレオンのロシア遠征の時の秘密諜報員疑惑もありましたし。岡本様のご推察には感銘を受けました。ありがとうございます。

返信する
ナカタ ヒロコ

 岡本 浩和 様

思い出したようなコメントですみません。この度のシュナーベルのベートーヴェンのピアノソナタを聴く機会をいただき、ついでに(失礼ですが)「悲愴」を聴いてみたいところ、2楽章に感じ入りました。どのピアニストの演奏でもそこそこ「いいなあ。」と思う曲ですが、これほどしみじみとしたというか、情感のあるというか、心に染み入る演奏があったかなぁ、と思ったことでした。この機会をいただき、ありがとうございました。

返信する
岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

こちらこそいつも感想など丁寧にいただきありがとうございます。クレンペラーの7番などもそうですが、確かにそういわれるとそうだなという気づきばかりで、何もかもがナカタ様のお陰だと感謝しております。僕がいかにいい加減に音楽を聴いているかという証ですが(笑)、人の感性の違いをあらためて知り、何事も様々な角度・観点から見聞きすることの大切さを実感します。

シュナーベルの「悲愴」2楽章いいですね!昔の人の演奏は、良い意味で「変に染まっていない」んでしょう。自由闊達さがあり、またそこに感情移入があり、そのあたりを天才プロデューサー(ウォルター・レッグ)がスタジオで見事にコントロールし、音盤にしているだけあると思います。

返信する
ナカタ ヒロコ

岡本 浩和 様

 シュナーベル「悲愴2楽章」、「いい」と賛同してくださり、うれしいです!「マタイ受難曲」のページで書いておられた『世界に本当の意味での客観はなし、あるのは主観の同意のみ』というお言葉にハッとさせられました。今までなんとなく、正しい聴き方、感じ方というものがあるような気がしていたと思います。(私としては柳田邦夫さん的な聴き方がしたい、と思うのですが。)あるのは主観のみ・・・ホッとすると共に、絶対的な孤独も感じます。その中で「主観の同意」は救いです。
 それにしても名演奏名録音の影に名プロデューサーの存在があるなんて驚きました!
岡本さんの見識はすごいですね。録音ではプロデューサーの音楽性が影響するのでしょうか?もしかして、右手と左手の音量なんかを調節したりするのでしょうか? 無知丸出しですみません。
 無知のついでに、ですが、シュナーベルが使っているピアノの音は今のピアノの音と違っているような気がするのですが、録音技術の差によるのでしょうか。それとも現代ピアノより古いピアノ(例えばピアノフォルテに近いとか・・・)なのでしょうか?
すみません。

返信する
岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

録音においてプロデューサーの役割はとても重要かつ大きいです。
例えば、フルトヴェングラーによる1951年のバイロイト音楽祭でのベートーヴェンの第九は有名な録音ですが、この世紀の名演奏が、プロデューサーであったウォルター・レッグの恣意的なコントロールが入っていたのではないかという疑惑が10年ほど前にあがりました。というのも、同年同日の放送局蔵出し音源が発掘され、それがまったく異なる演奏だったもので、どちらが真正で、どちらが偽物かという議論が当時音楽雑誌上の沸かせたのです。様々な推論がされましたが、結局のところ真実はわかりません。それくらいに、(特に)昔はプロデューサーの権限というか、力は大きかったのです。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=22186

ちなみに、シュナーベルのピアノについてですが、特別古いピアノではなく、現代ピアノだと僕は思います(きちんとしらべていないので確証はないですが)。強いていうなら録音の影響でしょうか。

返信する

ナカタ ヒロコ へ返信するコメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む