人は間違いなく環境に左右されるもの。
変転する自然の中にあって、現状維持に妥協する自分であってはならぬ。変化を怖れぬこと、むしろ愉しむこと。
人は人の才能に触発されるもの。
ヨハネス・ブラームスの交響曲第3番ヘ長調作品90。1883年12月2日、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演さる。
初演の会場には、アントニン・ドヴォルザークの姿もあったらしい。
そこで彼はインスピレーションを得、それが交響曲第7番ニ短調作品70につながったのだという(真偽は不明だが)。興味深いのは、ドヴォルザークの方がより旋律に富んでいるということ。やはり彼は稀代のメロディストだ。
カルロ・マリア・ジュリーニらしい巨大な音楽。「洗練」という言葉が正しいのかどうかはわからない。民族性が後退した彼のドヴォルザークにはおそらく是非があろう。
・ドヴォルザーク:交響曲第7番ニ短調作品70
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1993録音)
演奏には一切の無理がない。解釈に恣意がないのである。
あくまで彼は音楽の持つ呼吸に自らの呼吸を同期させる。あとは色彩感覚、リズムの感覚が作品に一致するか否か。それは間違いなく聴く側の感性にも左右される。
美しい第2楽章ポコ・アダージョが絶品。この際、スラヴ性云々は横に置く。清々しい、また、瑞々しい曲想と豪快でありながら大河の如く流れる音楽の同居はドヴォルザークの真髄。ジュリーニは歌う。どこかブラームスの交響曲第3番の匂いがする。
あるいは、第3楽章スケルツォにある、ブルックナーに負けず劣らずの野人の踊り。そして、終楽章アレグロの溌剌たる推進力。
ジュリーニとは不思議な人だ。
彼の棒の下、楽器を演奏した人から言わせると、彼の指揮は強烈なオーラを発し、それこそ魔法にかかったように巧みな演奏が可能になるのだと。そのジュリーニがかつてアイザック・スターンを独奏に迎えて協奏曲の伴奏をしたとき、スターンから子ども扱いされていたらしい、という逸話を聞いたことがある。巨匠も人間なのである。
今こそ世界はひとつになるときだ。戦いの背後には、幻想への信仰が存在する。逆に言うならば、めくら滅法の信奉は極めて危うい。真実をいかに見極めるか。