
死というものの恐怖は、自分のそのときが「いつ」になることかわからないことから生じるものだ。そしてまた、死後、僕たちがどこに行くのかを知らないことから生まれるものだ。もしも生死の問題を解決する方法があるのなら、そして、それが難なく手に入るなら誰もがそれを求めよう。
1791年は、モーツァルトの最後の年。
この年に創造された作品も、それ以前のものと同様、彼らしい明朗快活で、軽妙なものだが、ただし、そこには深遠な精神性が刻印されている。そこには確かにバッハの影がある。あるいはヘンデルのそれも。
自動オルガンのための幻想曲ヘ短調K.608。
1791年3月3日作曲。これくらいの曲なら、数時間もあればさっと仕上げることができたのだろう。しかし、10分余りのこの作品は、後にベートーヴェンが研究したほど内容は深く、後世の作曲家に多大な影響を与えている。
問題は、音域や音の数の問題で一人の演奏家では演奏できないという点だ。
エッシェンバッハとフランツによるピアノ・デュオは、呼吸もぴったりで、モーツァルト晩年の透明感を湛え、実に美しい。

あるいは、管楽合奏による演奏の、内から湧き上がる愉悦。こちらは、晩年特有の哲学性というよりむしろ親しみやすい音色とアンサンブルの妙に心が弾む。
実に生を謳歌する音楽たちよ。
少なくともこの時点でモーツァルトに死神は憑いていない。借金だらけの生活を返上せんと彼は一つでも多く需要のある作品を生み出そうと必死だった。モーツァルトがダイム伯爵の注文で書いた自動オルガンのための作品たちも、すべてはお金のため。そういう現実的な問題に直面しながら生み出された音楽にこれほどの喜びと、同時に悲しみが見事に刻まれるのだから素敵だ。
生と死は同義だとあらためて思う。