
色褪せた「社会主義リアリズム」とでもいうのか、ソヴィエト的でない、極めて心地の良い音調、開かれた絶対音楽、「レニングラード」という冠をむしろ廃棄した方が良いのではと思わせる欧州貴族的演奏。実にわかりやすい、ショスタコーヴィチの語り口を決してスポイルすることなく、否、それこそ二枚舌を排したような、ストレートな表現に僕は思わず唸った。
決して粘らず、淡々と音楽は進む。しかし、内なる思いは濃密な名演奏。
私はわが祖国を愛し、わが国民を愛し、ヒトラー主義の略奪者たちに対する我々の闘いの正当性を深く信じるものである。私はわが国の来るべき勝利を強く確信している。私は《交響曲第7番》に真剣で、大きな課題を込めている。これは我々の時代についての、わが国の人々についての、わが聖なる戦争についての、そして我々の勝利についての交響曲となるである。
「私の《第7交響曲》」『夕刊モスクワ』紙1941年10月8日付。
~「ショスタコーヴィチ大研究」(春秋社)P98
まったく信じられない、いかにも嘘くさい、ショスタコーヴィチの上っ面の声明。梅津紀雄氏と編集部はこれに対し、以下のような当を得た解説を施している。
(戦争の始まる前に構想されていた)《第7番》が《レニングラード交響曲》とよばれるのに私は反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。
~同上書P98
ショスタコーヴィチの姿勢は、あくまで反独裁だったということだろう。
彼は、どんなときも平和を希求し、そのために音楽を書き続けた。
それゆえかどうなのか、イデオロギーに偏らず、自然な流れで音楽を包括するのがベストな方法のようだ。
第1楽章アレグレットの主題提示から何という軽やかさ!また、「敵の侵入の行進曲」の真摯な歌に感動。スケルツォとはいえ、優美さと静けさに満ちる第2楽章モデラート(ポコ・アレグレット)の憂愁。そして、美しい第3楽章アダージョ。作曲者はこの楽章の主題をして「生命の歓喜と自然への感嘆」とするが、ヤンソンスの演奏は、的を射た生命力に溢れるもの。ここからアタッカで移る終楽章アレグロ・ノン・トロッポは、「レニングラード」交響曲の肝。コーダの輝かしい帰結を耳にする時、僕はいつも幸福を感じる。
ショスタコーヴィチは、独裁政治の終焉を願って本作を書いたことに間違いないだろう。
マリス・ヤンソンスが亡くなったという。享年76。
早過ぎる死が惜しまれる。