大自然への畏怖。
作曲者の言を待つまでもなく、この音楽には何か得体の知れぬ魔物が潜んでいるように思う。
盟友グスタフ・マーラーの死に際し、リヒャルト・シュトラウスはカレンダー・メモに次のように記したという。
この野心的で、理想主義的で、エネルギッシュな芸術家の死は、多大の喪失だ。(・・・)ユダヤ人マーラーはキリスト教の中で向上することができた。英雄リヒャルト・ヴァーグナーは一人の老人として、ショーペンハウアーの影響を通じて再び本来の自己に立ち返った。私にとって完全に明白なことは、ドイツ民族がキリスト教から解放されることによって、新しい行動力を得られるということだ。(・・・)私は「アルプス交響曲」をアンチ・キリストと名付けたい。すなわち、自らの力による道徳的浄化、労働による解放、悠久の自然への崇拝。
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P189-190
宗教を脱し、真理を得ることが生き残る道だとシュトラウスも直観的にわかっていたのだと思う(そういう本人はワーグナー以上に俗物だが)。確かに「アルプス交響曲」には、「自らの力による道徳的浄化、解放、自然への崇拝の念」が歴然とある。
・リヒャルト・シュトラウス:アルプス交響曲作品64(1911-15)
朝比奈隆指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団(1990.3.19Live)
ハンブルクはムジークハレでの実況録音。
冒頭「夜」から、静かでまた堂々たる響き。朝比奈の重心は相変わらず低い。
「エレジー~嵐の前の静けさ~雷雨と嵐、下山」の流れが、ベートーヴェンの「田園」交響曲さながら、大自然の摂理を見事に捉えているようで激しくも美しい。そして、対比的に奏される静謐な「日没~結末~夜」の懐かしさ!名演である。
ところで、朝比奈隆は「アルプス交響曲」に殊更の思い入れがあるようで、金子建志さんに次のように語ったという。
シュトラウスの生誕100年記念の年(1964年)に、ドイツの放送オケがシュトラウスのオーケストラ作品を全部録音して、放送しようということになったのです。シュトラウスの楽劇は、オペラ・ハウスでいつも取り上げられているのですが、交響曲はあまり演奏されないですからね。
それでカール・ベームと僕とが交響曲を演奏することになったのですが、どちらを演奏しますか、というので、「先輩に、好きな方を選んでもらって下さい」ということにしたら、ベームが〈家庭〉を選んだので、私が〈アルペン〉になった。あれは何度も放送されたみたいですよ。でも、さすがにテープの録音が古くなったので、もう一度演奏してくれ、ということになった。それで、ハンブルクと周りの二、三の街で演奏してきました。
とにかく編成の大きな曲なので、一つのオーケストラだけではなかなかできないのですが、やってみたら、そんなに難しい曲じゃない。シュトラウスの住んでいたガルミッシュの山荘から山に登って下りてくると、あんな風になるんでしょう。
~PCCL-00155ライナーノーツ
朝比奈御大らしい豪快でありながらどこか繊細なエピソードである。
ちなみに、朝比奈が「アルプス交響曲」を初めて振った1964年3月の(オーケストラはベルリン放送交響楽団、現ベルリン・ドイツ交響楽団)コンサートは、大成功をおさめ、音楽評論家のハンス・シュトゥッケンシュミットに大絶賛されたという。
[…] は、聴衆の期待の拍手から始まる。カラヤンの洗練された録音とは一線を画する、愚直で生々しい、そして重厚な朝比奈のアルプス交響曲。意外にも(?)御大の十八番であったという。 […]