吉田秀和さんに「二つの退場」と題するコラムがある。
2002年2月22日に発表されたそれは、前年末に亡くなった朝比奈隆さんと、当時同じく道半ばで外相を辞任することになった田中真紀子さんにまつわるものだった。
あの人は歌舞伎の立ち役として通用するような立派な風貌をもった偉丈夫として指揮台に立ち、小回りはきかないが、悠揚迫らぬ棒さばきで、ブルックナーやベートーヴェンの大交響曲を鳴らした。音の入りが不ぞろいだったり、リズムが不鮮明だったりすることもなくはなかったが、それは瑕瑾というものである。
「朝比奈さんはブルックナーはよいけど、ドビュッシーはどうも」とかいう人もあり、私もその一人ではあったが、そもそも彼が何でも屋でないということが大切なのだ。私はなぜ彼がブルックナーとベートーヴェンに打ち込み、特に晩年はくり返しやったあげく、最後までそれで通してしまうことになったのか、よくは知らない。が、そんなことは実はどうでもいいことなのだ。
とにかく、彼は全身全霊を込めてやりたい音楽を見いだし、いくらやってもこれで終りということにならないので、くり返しやらずにいられないということを身をもって示し、それで生き、それで死んだ芸術家だったのである。
~「吉田秀和全集23 音楽の時間V」(白水社)P400-401
朝比奈さんの逝去に対しての吉田さんの論は概ね明るい。一方、外務官僚との軋轢の中で退場を余儀なくされた田中さんについては、吉田さんも問題を指摘しながら無念を表す。
こうしてみると、朝比奈氏と田中前外相の間には、小回りが利かないある種の不器用さという共通点が見える。しかし、二人の退場の情景は対照的に違ってしまった。この国の政治的風土とメディアの体質は外務省を巡る喧嘩口論の現象面ばかりに拘泥し、大切な外交論議は埋没してしまっている。せっかく少しずつ戻りつつあった私たちの国政への関心は急激に冷却してゆく。政治はどんどん遠くなる。
~同上書P403
私見を述べるなら、同じ不器用であっても愚直を座右の銘とする朝比奈さんには一切の思惑なく、田中さんには目に余る企図があったことが結果の違いを露呈したのではなかろうか。自然体であること、流れに乗ることがいかに重要か。
朝比奈隆のベートーヴェンは無骨でありながら、外面のゴツゴツ感を超え、僕たちにどんあときも感動を与えてくれた。それはベートーヴェンやブルックナーに限らず、彼の指揮するドイツ音楽は常にそうだった。1990年3月、欧州楽旅でのベートーヴェン、あるいはリヒャルト・シュトラウス。
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ロ長調作品58
オレグ・マイセンベルク(ピアノ)
朝比奈隆指揮北ドイツ放送交響楽団(1990.3.15Live)
ハンブルクはムジークハレでのライヴ録音。
朝比奈の棒に影響を受けたのか、マイセンベルクのピアノも実に男性的な音調を醸す。終始ゆったりとしたテンポで語られる音楽は、第1楽章アレグロ・モデラートからベートーヴェンの心の襞までを見透かすような慈しみに溢れるものだ。ピアノと訥々と対話し、朝比奈は思念する。心なしかカデンツァに垣間見る一抹の寂寥感はマイセンベルクその人のものというより朝比奈のそれのようだ。続く第2楽章アンダンテ・コン・モートも黙想しながら指揮する御大の姿が目に浮かぶような祈りに溢れるもの。アタッカで奏される終楽章ロンド(ヴィヴァーチェ)は、明朗で堂々たる表現で実に素晴らしい。
リヒャルト・シュトラウス:アルプス交響曲作品64
朝比奈隆指揮北ドイツ放送交響楽団(1990.3.19Live)
同じくムジークハレでのライヴ録音は、聴衆の期待の拍手から始まる。カラヤンの洗練された録音とは一線を画する、愚直で生々しい、そして重厚な朝比奈のアルプス交響曲。意外にも(?)御大の十八番であったという。