シュナーベル ベートーヴェン ワルトシュタイン・ソナタ(1934.4.25録音)ほか

10代の頃のグレン・グールドにとっての神は、アルトゥール・シュナーベルだったそうだ。

そう、ひとつには、シュナーベルが楽器としてのピアノにあまり頓着しない人のように感じたからです。彼にとってピアノは目的達成の手段にすぎない。目的とはベートーヴェンにアプローチすることでした。12歳か13歳のとき、ベートーヴェンのト長調協奏曲の勉強を始めました。初めて学び、初めて弾いた協奏曲でした。かくしてシュナーベルの録音の模倣を始めたのですが、模倣の度が過ぎて、レコードを教師に取り上げられ、1ヶ月間、まずい部分を反省させられました。耳を疑うような長さのルバートをして、テンポを引っ張ってばかりいたからです。シュナーベルの2倍近くも引っ張っていましたよ(笑う)。
インタヴュー「アット・ホーム・ウィズ・グレン・グールド」(1959年)
ジョン・P・ロバーツ編/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P73

グールドの、ルバートを含めた強烈な個性の源泉がシュナーベルであったとは実に興味深い。そしてまた、彼はシュナーベルの実演には触れたことがなく、専らレコードでのみ徹底的に聴き込んでいたというのだから、そのあたりの習慣が後のコンサート・ドロップアウトの伏線になっているようでもあり、面白い。

ベートーヴェンの249回目の生誕日にアルトゥール・シュナーベル。
決して古びない(現代的な)、永遠普遍のソナタハ長調作品53「ワルトシュタイン」。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオから、多少の瑕はものともせずシュナーベルのピアノが弾ける。テンポ設定は理想的。何と煌めく音楽なのだろう。そして、深淵を覗き込むように始まる第2楽章アダージョ・モルトの神秘。アタッカで続く終楽章ロンドは何と喜びに満ち、開放的なのだろう(例のオクターヴ・グリッサンドのパートは、無難にアルペジオによる)。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」(1934.4.25録音)
・ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調作品54(1933.4.11録音)
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」(1933.4.11録音)
・ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調作品78(1932.3.22録音)
・ピアノ・ソナタ第25番ト長調作品79(1935.11.15録音)
アルトゥール・シュナーベル(ピアノ)

アビーロード第3スタジオでのレコーディングは、緊張感あれどとてもリラックスした雰囲気の中で行われたのだろう、シュナーベルのベートーヴェンはどの瞬間も一切の気負いなく自然体。やりたいようにやり、ひらめきのままに音楽を奏でる様がとても美しい。

ソナタヘ長調作品54を小さな、軽いソナタだと侮るなかれ。優雅な第1楽章テンポ・ディ・メヌエットから劇性強い第2楽章アレグレット―ピウ・アレグロの展開が、いかにもベートーヴェンらしく、シュナーベルは見事な対比をもって作曲家の心を描き切るのである(コーダの追い込みの熱量が半端ない)。そして、決して激しくない、内なる「平穏」を見事に表出するソナタヘ短調作品57「熱情」。第1楽章アレグロ・アッサイはむしろ何て明朗で優雅な音楽に聴こえるのだろう。これぞシュナーベル・マジック!逆に、第2楽章アンダンテ・コン・モトに垣間見る暗澹たる魔性。そして、終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ―プレストは流れるような美しさだ!

静かに瞑想するわずか数小節の序奏アダージョ・カンタービレの官能。ソナタ嬰ヘ長調作品78第1楽章の主部アレグロ・マ・ノン・トロッポの可憐さ、心地良さ。

実は、この作品は、その創作期のベートーヴェンが心を砕いていた構想上の問題のほとんどを要約する見事なミニチュアなのです。その3年後の1812年に完成した第8交響曲と同様、古典派風の静けさに満ちた様子を意図的に装いました。それは、地味であろうと独創的には違いない発想の数々をうまく隠すためでした。
「ベートーヴェンの《テレーゼ・ソナタ》」(1968年)
~同上書P129

グールドの分析は実に的を射ていると思う。そして、そのことを大らかに体現するのがシュナーベルのピアノなのである。ちなみに、対となるソナタト長調作品79も、グールドの言う「厳格さという拘束服をかなぐり捨てた」傑作であり、シュナーベルの演奏も自由さを獲得した、魂の浮遊を象徴する奇蹟だと思う(言い過ぎか?!)。

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4 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。このCDを聴いてみました。「ワルトシュタイン」は正直に言いますと、1楽章の疾風怒濤の速さに振り落とされ、2楽章のスローさに脱落してしまいました。3楽章は大丈夫でしたが、この速度の差は何でしょう。その点でもグールドはシュナーベルを模倣していたのでしょうか。こんなに速く演奏する必要があるだろうか?とか、どうしてこんなに遅い?と訝しく思うことも多々あると思います。グールドは自分がピアニストと呼ばれることを好まず、音楽にピアノという楽器でアプローチしているだけ、という考えだったように思うので、「シュナーベルが楽器としてのピアノにあまり頓着しない人のように感じた」グールドは共感を覚えたのでしょうね。ワルトシュタインを聴くと、少しわかるような気がします。ピアニズムの細部に拘らず、曲を大きくつかみ出す、という感じがします。あんなに速く弾いて初めて見えてくる曲の輪郭があるようにも思います。続く22番はあまり近づいたことのない曲でしたが、その2楽章の交響楽的なボリュームにびっくりしました。23番は堂々と威厳があり、すばらしかったです。後の「熱情」演奏の基本になったという説が納得できました。24番「テレーゼ」の1楽章の艶やかさ、愛らしさにうっとり。昔の録音なのにこのような音の豊かな表情が出せているなんて驚きではないでしょうか。こんな魅力的な演奏は初めてのように感じ、ベートーヴェンはシュナーベルだけでいい、とまで思ってしまいました(笑)。次の25番も同様。
 ついでに(?)グールドの「熱情」も改めて聴いてみました。その冗談のような遅さにうろたえます。グールドは「ベートーヴェンの3大ソナタのどこがいいのかわからない。」と言ったとか。「名曲はテンポに左右されず、どのような速さで演奏しても良さは不動だ」とも。その実験をしているのでしょうか。最初は面食らっても慣れてくると次第に良さが感じられてきたりして、そこにグールドの稀有な才能があるのだろうと思うのですが、曲にとってテンポは大切な要素ではないでしょうか。少しでも速さがちがうだけで曲の表情は違ってくると思うのですが。どうでしょう。グールドの「ワルトシュタイン」の録音がない(ないですよね)のが残念です。
 面白いこと(私にとって)を考えさせていただき、ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

今回のコメントで考えさせられたのは、人はそれぞれに物差しを持っていて、どうしてもそれを基準に考えてしまうものだということです。グールドの「熱情」については、一般的に「否」の見解が多いようですが、(楽譜の指定を無視しているとしても)あれはあれで「ありかな」と思います。アカデミックにアプローチするも良し、独自の解釈でエキセントリックに進めるも良し、特にベートーヴェンの作品はあらゆる解釈を許容するだけの器があると僕は思うのです。その意味でグールドの「テンポに左右されず、どのような速さで演奏しても良さは不動だ」という言葉に僕は膝を打ちます。

ところで、シュナーベルの演奏はどれもが80年以上前の演奏、録音とは思えない「新しさ」というか普遍性がありますよね。聴き込む価値のある全集だと思います。

あ、グールドの「ワルトシュタイン」はないようです。残念です。

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桜成 裕子

「ベートーヴェンの作品はあらゆる解釈を許容するだけの器がある」とのお考えに感銘です。そういえば、1番か2番のピアノ協奏曲で、他のピアニストがフォルテで弾いている音をグールドだけピアノで弾いていて、それがものすごくよかったのです。それでベートーヴェンはどう指定しているのだろう、と楽譜を調べるとフォルテ記号が書かれていました。「作品は誕生すると同時に作曲家の手を離れる」とのグールドの言葉の実践を見るようでした。本当に自分の物差しにとらわれすぎている、と反省です。ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ただし、グールドの場合はあまりに極端ですので、果たして彼の言葉のすべてが「正しい」かどうかはわかりませんが・・・。(笑)
結局、すべては自分の感覚、センスに委ねるしかないですね。

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