ストラヴィンスキー指揮コロンビア響 バレエ組曲「ペトルーシュカ」(1947改訂版)(1960.2録音)ほか

音楽の源泉はさしずめ祈りと舞踊ということになるのだろうか。
リズムと歌と、指揮者なり演奏者なりがそこを丁寧な仕事で対応できるならおそらく人々に感動を与えるのは容易いだろう。

イゴール・ストラヴィンスキーは、時代ごとにその作風を変えていったが、根源は、つまり歌とリズムという点では、いずれの時代においてもストラヴィンスキーはストラヴィンスキーだった。原始主義の時代はもちろんのこと、新古典主義の時代の作品もセリー時代の作品も猛烈なリズムの饗宴と、いかにも彼らしい土俗的な響きがその魅力を支えていた。

いつの時代も保守派の抵抗というのは手強い。
バレエ音楽「ペトルーシュカ」のときもストラヴィンスキーは散々な目に遭っていたようだ。

その後、私たちが訪れたブダペストは、ひじょうに心地よい町だという印象を私に与えた。同地の人々は開放的で、温かく、親切だ。したがって、すべてはとても上手く運び、私のバレエ『火の鳥』と『ペトルーシュカ』は大成功を収めた。何年ものち、ブダペストを再訪したときにも、私は聴衆に旧知の人物のように迎えられて深く感動した。そのくぁり、私の最初のヴィーン訪問について、私はむしろ苦い思い出を抱いてきた。オーケストラの団員がリハーサルで『ペトルーシュカ』の音楽に示した嫌悪は、私にとってまったくの驚きだった。そのころ、私の音楽のいくつかの部分が、ヴィーンのような保守的なオーケストラに一度では理解されなかったことは認める。けれども、その嫌悪が稽古を公然とさぼったり、声高に、たとえば「不快な音楽schmutzig Musik」といった失礼な言葉が吐かれたりするまでに至るとは予期していなかった。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P55

革新はいつだって保守からいじめられ、手痛い思いをするものだ。
しかし、どんなときもそれを覆す、慈しみに溢れる紳士淑女がいるものだ。

その年老いた、フランツ=ヨーゼフ風の頬髯をたくわえた好々爺は、優しく私の肩を叩き、こう言った。「そんなに悲しまないようにしましょうよ。私はもう50年もここにいるんです。私たちのところで、ああしたことが起こるのはこれが最初ではありません。『トリスタン』でも、同じことでしたよ。」ヴィーンについてはなお語る機会があるだろう。
~同上書P55-56

こういった洗礼は、いわば天才が通る必然の関門なのだろうと思う。
さすがに後年、ストラヴィンスキー自身が録音した「ペトルーシュカ」は素晴らしい。文字通り舞踊と歌に満ちる音楽は、作曲から随分経過してから組曲版が編まれたが、音楽の律動とカンティレーナ、テンポの正当性は人後に落ちない。

ストラヴィンスキー:
・バレエ組曲「ペトルーシュカ」(1947改訂版)(1960.2.12-16録音)
・室内オーケストラのための組曲「プルチネルラ」(1922/47)(1965.8.25録音)
・バレエ音楽「火の鳥」(1945改訂版)(1967.1.18録音)
イゴール・ストラヴィンスキー指揮コロンビア交響楽団

後年の編曲版はいずれも、ある意味ソフィスティケートされ過ぎ、若き頃の暴力的で地鳴りのするような音響がスポイルされており、ストラヴィンスキーの醍醐味が半減するが、その分、「歌を聴く」という点で心の静けさが要求される。これはもう舞踊のための音楽というより絶対的な音楽として機能しているように思うのだ。

そのような態度によって私が自分の道から逸らされるようなことは、むろんないだろう。無分別にも、単に私を退行へと唆しているのだということを疑ってもみない人々の要求を満足させるために、私が愛し、私が渇望しているものを私が犠牲にすることなどない。よく承知しておいていただきたいが、彼らが望んでいるものは私にとっては時代遅れのもので、彼らの意見に従うことは、私自身を無理に抑えつけることである。しかし他方、私が「Zukunftsmusik(未来の音楽=実現の見込みのない夢)」の信奉者であると思うなら、それは間違いである。それ以上に馬鹿げたことはない。私は過去にも、未来にも生きていない。私は現在に生きている。
~同上書P205-206

ストラヴィンスキーの意志は真っ当だ。
結局彼は勝者だった。

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