昨日の考察の続き。どうしてドビュッシーが苦手だったのか?昨晩の加納裕生野ピアノ・リサイタルを聴いて、ドビュッシーがいわば「視覚で聴く」音楽を書いたのではということを書いた。もともと僕は「視覚」より「聴覚」の感度が良いことを自覚しており、芸術においても「絵画」は滅法弱く、一方「音楽」はこの上なく好きで、我ながら「良いものを見極める」センスもあると自負してきた。これまで何度もヨーロッパを訪れ、そのたびに現地のコンサートホールやオペラ座に行き、音楽や歌劇を堪能したり有名な美術館に出向くことがあったが、音楽を聴くことに関しては相当の執着を持つ一方で、こと絵画に関しては「せっかくヨーロッパに来たのだから」という消極的な理由で回ることが多かった。
もちろん絵画についての知識が薄く鑑識眼を持ち合わせていないことが一番の理由だが、実際のところは人より「絵」に関して「感じる」心が薄いのかもしれない。例えば、瞑想をする時もそう。眼を閉じ、意識を外部に向けてもなかなかイメージが具現化されず、真っ暗で何も見えないことが多い。人によってはカラーで様々な映像が降りてくるというにもかかわらず。映画やDVDを鑑賞する時もそう。余程の作品でない限りなかなか長時間集中して観続けることができない。だから、普段から映画やテレビを好んでみることは極めて少ない。まぁ、物理的に眼が弱いということも関係しているのかもしれないが・・・。10数年前から猫アレルギーになり、コンタクト・レンズが入らなくなったこともそうだし、雨降る夜は光が反射して前がよく見えず、とても危険だからうまく運転ができないという事実もそう。
ともかく「目」よりも「耳」の人間なのだろう。「眼で聴く」ことを要求するドビュッシーが不得手だった理由がちょっとわかる気がする。
ドビュッシーの聴き方。「絵画的」だということをまずは認識すること。そして「鑑識眼」が欠けているなりに想像し、楽しむこと。とにかく一度ツボにはまれば一気にその世界が開けるように思うので、集中して聴いてみることだ。
ドビュッシー:ピアノ作品全集4
ミシェル・ベロフ(ピアノ)
「版画」、「映像」、「喜びの島」などが収録された1枚。タイトルからして絵画的である。ベロフが復活後90年代に録音した中からの1枚だが、その演奏内容は円熟の極み。若い頃にレコーディングした「前奏曲集」は以前から耳にしていたが、やはり壮年になってからの演奏がより意味深い。もっともっとじっくり聴き浸ってドビュッシーの音楽をものにしたい。
今朝は曙橋のサンマルクカフェにて早朝ミーティング。そして、午後は新宿で個人セッション。やっぱりセミナーの威力は素晴らしい。各々が自ら気づいて日常の生活の中に取り入れ、変化・進化しようとしている。やっぱり人は誰でも本来「力」をもっているものなんだ。
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[…] ても、人間に生まれて来て良かったなぁと感じさせてくれる。 ちなみに、ドビュッシーの「グラナダの夕暮れ」を聴いた時、見事にスペインを描ききっている書法にファリャは吃驚仰天 […]