ルネ・ヤーコプス指揮フライブルク・バロック・オーケストラ ベートーヴェン 歌劇「レオノーレ」(1805年第1稿)(2017.11.7録音)

初めそれはフランス軍入城の7日後に、すなわち最悪の条件下で、行なわれました。もちろん劇場は空っぽで、そしてベートーヴェンは、彼もまた台本の進行に不十分なところを認めていたので、このオペラを3回の上演の後に引っ込めました。秩序が回復した後、彼と私はこれを再び取り上げました。私が彼のために台本全体を改作し、それによって筋はより生き生きした敏速なものになりました。彼はたくさんの曲を短くし、そしてそれは続いて3回、大喝采を受けて上演されました。
(1806年6月2日付、ブロイニングの姉夫妻宛て書簡)
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P611

歌劇「フィデリオ」初稿、すなわち歌劇「レオノーレ」の初演は惨憺たる結果に終わったという。そもそも戦時下で、貴族は疎開、聴衆のほとんどは、ドイツ語を理解しないフランス兵だったというのだからやるせない。

ベートーヴェンの新作オペラ《フィデリオあるいは夫婦の愛》は受けなかった。この作品は数回しか上演されなかったが、1回目の上演の後はずっとがらがらだった。音楽も、精通者や愛好家の期待を完全に裏切る出来だった。旋律も性格描写も、様々な試みがなされているにもかかわらず、モーツァルトやケルビーニの作品で我々に抗し難い感動をもたらすあの効果的で適切で抗し難い情熱表現を欠いている。音楽は、いくつか美しい箇所もあるとはいえ、完全な作品だとはとても言えないし、佳作とすら言えない。ゾンライトナーが翻訳した台本は救出劇だが、この種の劇はケルビーニの《水運び》以来流行になっている。
(1805年12月26日付の《フライミューティゲ》から)
アッティラ・チャンバイ/ティートマル・ホラント編「名作オペラブックス③フィデリオ」(音楽之友社)P184

この初演評を読むにつけ、当時の専門家連中にも「レオノーレ」の真実が理解できなかったことが不思議でならない。しかし、外的環境要因ばかりでなく、ベートーヴェンの音楽そのものすら否定されている点から考えると、改訂作業に移行せざるを得なかった作曲家にあって、真に彼が悟りを得るための必要不可欠な「天の按配=魂の成長のための試練」だったのかもと思えなくもない。

序曲からフィナーレまで、集中力途切れぬ、怒涛の表現。
生誕250年を迎えるベートーヴェン・イヤーの最大の聴きものの一つだと思う。
歌劇「フィデリオ」、否、初稿となる歌劇「レオノーレ」を評価する僕にとっては最高のセット。入手してから何度繰り返し聴いたことか。これでこそベートーヴェンの本来の意図、意志が映えるというもの。ちなみに、指揮するルネ・ヤーコプスはこの版を採用した理由をいくつか挙げているが、それがまたとても納得できるものだ。

それは、内容が、モーツァルトが目指したものと同質であり、再演のための第2稿では、重要なナンバー、すなわちロッコの(黄金の)アリアと、第2幕のヴァイオリンとチェロ独奏のオブリガートを伴ったマルツェリーネとレオノーレの二重唱「結婚生活を楽しくするために」がカットされてしまったという痛恨事を孕むこと。そして、各幕で主要キャラクターを立たせ、劇作品としての統一感を見事にもたらしている点(すなわち第1幕はマルツェリーネを軸にしたジングシュピールであり、第2幕はレオノーレ主体のメロドラマ、そして第3幕はフロレスタンをメインにした悲劇という構成だとヤーコプスは説くのである)にも説得力がある。
それにしても、序曲第2番のもつ、前衛性、革新性に対するヤーコプスの果敢な挑戦、前のめりの強力な演奏が、ベートーヴェンの意志に花を添える(形式的にも表現的にも最も大胆でエキサイティングだとヤーコプスは言う)。

・ベートーヴェン:歌劇「レオノーレ」作品72a(第1稿1805年版)
ダイアログ:ルネ・ヤーコプス監修
マルリス・ペーターセン(レオノーレ/フィデリオ、ソプラノ)
マクシミリアン・シュミット(フロレスタン、テノール)
ディミトリ・イヴァシュチェンコ(ロッコ、バス)
ロビン・ヨハンセン(マルツェリーネ、ソプラノ)
ヨハネス・ヴァイサー(ドン・ピツァロ、バリトン)
タレク・ナズミ(ドン・フェルナンド、バス)
ヨハンネス・チュム(ヤキーノ、テノール)
チューリッヒ・ジング=アカデミー
フロリアン・ヘルガート(合唱指揮)
アンネ・カタリーナ・シュライバー(コンサートミストレス)
ルネ・ヤーコプス指揮フライブルク・バロック・オーケストラ(2017.11.7録音)

フロレスタンのアリア「神よ、ここは何という暗さなのだ!」に始まる第3幕が素晴らしい。特に、ヤーコプスが、ヒッチコックのサスペンス映画のような緊張感が閉幕の直前まで続くと指摘する第18番フィナーレの高揚感!

解放は牢獄で行われる。遠くから復讐を叫ぶどよめきが聞こえてくる。フロレスタンとレオノーレは自分たちはもうだめだと思う。彼らは抱き合いながら次のように歌う。

さあ潔く死にましょう、
私は彼の(彼女の)腕の中で死にましょう。

これはいわば窯の中の若者たちの伝説のような状況だ。ただここでは登場人物が愛し合う夫婦になっただけだ。大臣であり友人のドン・フェルナンドが現れてはじめて、死ぬ覚悟をしていたレオノーレとフロレスタンは、復讐の叫びは彼らにではなくピツァロに向けられたものだと知る。ドン・フェルナンドの命令でレオノーレはフロレスタンを鎖から解放する。《フィデリオ》版では短縮され台詞で経過に触れるだけですまされているものが、《レオノーレ》版ではまだその迫力のある原形で認められる。ベートーヴェンは今度は何と青年期の作品に立ち帰る。レオノーレが夫を解放している間、はじめ管楽器のコーラスが鳴り、次に弦楽器がボン時代のヨーゼフ2世葬送カンタータの大讃歌を歌いあげる。

そこでは人は光の中に登る、
そこでは幸福に
地球が太陽のまわりを回る。

この合唱曲は完全な形で楽器に割り当てられている。本来人の声で表現されるものが、いわば〈はめ込み式に作曲されている〉。他の人々に支えられてレオノーレが口ごもりながら次のように歌う。

ああ神よ、何という瞬間でしょう・
言いようのない甘い幸福。

(ハリー・ゴールドシュミット「原レオノーレ」)
~同上書P180-181

このドキュメンテーションがすべてだ。
これを読み、「レオノーレ」初稿を聴きたいと思わない人がどれだけいよう。
悟りのプロセスにあるベートーヴェンの神髄!!音楽性含めあらゆる点で渇きを癒してくれるのが、ルネ・ヤーコプス盤である。

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