プレヴィン指揮ウィーン・フィル R.シュトラウス 「ばらの騎士」組曲ほか(1992.10録音)

楽劇「ばらの騎士」の驚異的成功を受け、意気軒高していたリヒャルト・シュトラウスは、アーサー・M・エーブルの投げかける創造の霊感についての様々な質問に難なく応じてくれたという。中でシュトラウスは次のように語る。

私はこのような宇宙的な力を定義できると思うほど十分に進歩してはいないが、ある程度まで私がその力を自分のものとすることができるのはわかっているし、これは結局のところ、この世にあって死ぬべき運命にある我々にとって、考えなければならない重要な問題だ。ただ私は、自分の体験からこう言うことができる。熱心に求め、目的が定まっていれば、強い決意と結びついて結果をもたらすものだ。断固として思考を集中させれば途轍もない力となり、あの神聖な力はその力に応答してくれる。私は確信している。これは一つの法則であり、人類のいかなる分野における行為についても当てはまるのだと。
アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P161

もはや悟りの境地ともいえるシュトラウスの、謙虚でありながら、自身に内発される根源的な力のことをブラームスと同じく明確に言語化している点が素晴らしい。しかも、天才に限らず、志を抱いた者にはすべてそういう神聖な力が応答してくれると断言するところが見事。自分を信じることができる誰もに宇宙的な力はもたらされるのだと彼は言うのだ。

今や世界は他力でこそ成り立つものだと思う。
それこそ自力と他力の割合は1対9だと言われるほどだ。

山田耕筰の証言などにもあるように、当時から彼は一方で守銭奴扱いを受けていたくらいで、現実的な側面も持っていたとはいえ、それでも彼の遺した芸術作品をみるにつけ、その人間離れした力量は天才の名に値するものだろう。特に、数多生み出した楽劇たち。

リヒャルト・シュトラウス:
・楽劇「ばらの騎士」作品59からの組曲
・歌劇「インテルメッツォ」作品72からの4つの交響的間奏曲
―第1曲「旅行前の興奮とワルツの情景」
―第2曲「暖炉のほとりでの夢想」
―第3曲「トランプのテーブルを囲んで」
―第4曲「楽しい結末」
・歌劇「カプリッチョ」作品85から
―序奏
―月の光の音楽
・楽劇「サロメ」作品54から
―サロメの踊り
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.10録音)

先達の影響から抜け出し、独自の革新的な作品を生み出し続けたシュトラウスは、ある時期に悟る。それは、楽劇「エレクトラ」を創造した後のこと。

1909年1月25日、ドレスデンでエルンスト・フォン・シューフの指揮により《エレクトラ》の初演が行われた後で、シュトラウスは私にこう語った。
「君は私と19年間も顔見知りだし、表出としての音楽への私の熱狂ぶりにも十分気づいている。だが限界というものがあり、私は《エレクトラ》でその限界に達したと感じている。もし私が、管弦楽と声楽の暴力で人間の感情をこれ以上かき乱そうとすれば、それはもはや音楽ではない。私の次の歌劇は、はるかに簡素な様式で書くことになるだろう」。

~同上書P155

いわば中庸こそを是とするシュトラウスの信念と自己批判の賜物。
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルによるリヒャルト・シュトラウスの楽劇(歌劇)からの管弦楽曲集のあまりの見事さに舌を巻く。何より優れた選曲!!
「ばらの騎士」組曲はもちろんのこと、文字通り夢見るような「インテルメッツォ」からの「暖炉のほとりでの夢想」の官能的美しさ。ここには間違いなく神聖なる力の加担がある。
そして、室内楽的な、こじんまりした、可憐な響きの「カプリッチョ」がまた素晴らしい。晩年の枯淡の境地、諦念が刷り込まれる音楽(シェーンベルクの「浄夜」の持つ、世紀末的アンニュイさを含む浪漫の音調)を、プレヴィンが見事に自然体でコントロールする様に涙する。「月の光の音楽」も然り。

続く「サロメ」からの「7つのヴェールの踊り」冒頭の激する管弦楽と、エキゾチックなオーボエの旋律から湧き出る官能性が僕は堪らない。

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