
ブルックナーの交響曲の中でも、ある意味特殊な立ち位置にあるのが、交響曲第6番だ。
83年2月の初演では、宮廷歌劇場監督ヴィルヘルム・ヤーン指揮のヴィーン・フィルにより、第2楽章と第3楽章だけが演奏された。このマチネではほかにベートーヴェンの序曲、エッケルトのチェロ協奏曲、シュポーアの交響曲が演奏されたため、全曲演奏は割愛されたのである。ブルックナーは楽章ごとに喝采を浴びたが、ハンスリックは冷ややかにこう評した。
「全般的に言えば、野人作曲家ブルックナーはやや躾を身に付けたが、自然を喪失した」
その後この作品は、ほとんど世の注目を集めなかった。この曲が煩雑な改訂をまぬがれたのは、そのためでもある。番号付きのブルックナーの交響曲のうち、未完の「第9番」を除けば、「第6番」は作曲家の生前に出版されなかった唯一の作品でもある。
~田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P194-195
不幸中の幸いとでもいうのか、あるいは、あえて仏教用語を使用して表現するなら、「第6番」にまつわる様々な事態、そして強敵ハンスリックなどすべてが「外護の善知識」となる、後世にとっては、否、ブルックナー自身にとってもそれは最善の縁だったといえる。
実際、コンパクトにまとまった交響曲は、緊張感に富み、楽想も豊かで、作品そのものが地味ながら毎瞬歓喜に溢れる風趣を保つ。スケールが決して大きくない分、実は最も親しみやすい音楽なのである。
・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(原典版)
オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1978.6録音)
ドレスデンはルカ教会での録音。
初演の際、聴衆から喝采を受けた第2楽章アダージョが俄然美しい。ヨッフムの棒は極めて自然体。音楽の隅から隅にまでこもる愛情というのか、指揮者がブルックナー作品に感化された思念があちこちから滲み出る。何よりまるで誰かの葬送を髣髴とさせる第3主題の哀感は、ヨッフムの真骨頂。拡がりを見せる展開部の鷹揚さ、そして再現部に至って一層の色彩感を増す再現に心が動く。さらに、同じく喝采の対象だった第3楽章スケルツォは、欣喜雀躍する子どものようなアントン・ブルックナーの顕現か。トリオで奏される第5交響曲の木魂がとても懐かしい。
彼は年老いても幼子そのままだった。その感情は素朴であり、思考は曇りなく率直であり、心は善良で信仰深く、人となりは飾り気がなく、その願望は清純だった。
「ヴィーン・アルゲマイネ新聞」(1996年10月)
~同上書iv-v
交響曲こそ誰も敵わぬブルックナーの本懐。心して聴くべし。