
これまでどんな演奏にもなかったほど天才的でウィーン風だった。
(チェロ奏者、ヴェルナー・レーゼル)
シュトラウスへの彼の関わり方はすばらしかった。彼はこの作曲家を真摯に指揮した。どの移行部もとても美しく、あでやかだった。それはテレビでも確認できたが、そんなことはきわめてまれなことだ。CDでもそれがはっきり聴き取れる。録音はこの雰囲気と熱気をとても良く伝えている。
(コンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク)
彼はウィーン子をきりきり舞いさせるすべを心得ている。彼は指揮し、旋回し、縫い、小躍りし、軽く触れ、鋭く刺し、なめらかに刈り、蛇やとんぼになり、ジェットコースターや打ち上げ花火に遊び興ずる。彼はこの世界的と言うべきコンサートになくてはならないすべてのショウの効果を遊びながら楽々と発揮する。
(ウィーン国立歌劇場監督、クラウス・ヘルムート・ドレーゼ)
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P262
コンサート評でも音盤評でも手放しの賞讃ばかり。
世界は熱狂した。
僕がウィーンのニューイヤー・コンサートを初めて観たのは、ヴィリー・ボスコフスキーが指揮者を退き、ちょうどロリン・マゼールが指揮台に乗った年だったと記憶する。教育テレビで放映された演奏の詳細はもはや忘却の彼方だが、マゼールが多言語で「あけましておめでとうございます」を連呼していたシーンは不思議に脳裏に残っている。
ウィンナ・ワルツに関して正直シンパシーはなかったので、それ以降しばらくニューイヤーコンサートを真面目に聴いたり観たりすることはなかったが、1989年は違った。
(期せずして1週間後に昭和の終焉と平成の開闢を迎えることになるその年だ)
前年の初秋だったかに告知されたのは、(ニューイヤーに)まさかのカルロス・クライバー登場。そして、迎えた当日、テレビを前に、僕は手に汗握り静かに観た。完璧だった。美しかった。そして何より、楽しかった。
カルロス・クライバー登場までの紆余曲折が興味深い。
かつて袂を分かったウィーン・フィルとの再びの絆はどうやって築かれたのか。
(相変わらずのクライバーの我儘ぶりにもめげず、オーケストラやレコード・レーベルは要求にすべて従った)
以前クライバーをさんざんに批判したウィーンの各紙は、彼の新しい客演を嗅ぎつけていた。過去のことは水に流され、これは結構なことという顔つきになった。なにしろすごいことが起ころうとしていたからだ。クライバーが本当に1989年のニューイヤー・コンサートにOKを出したのだ。クライバーの高く評価しているクレメンス・クラウスがニューイヤー・コンサートを創始し、1955年にヴィリー・ボスコフスキーがあとを継いだが、クライバーもその伝統の聖列に加わったのだ。ボスコフスキーが1979年に健康上の理由で降板したあと、指揮台に登ったのはマゼール、カラヤン、アバドなどだった。クライバーは登板を求められながらも、心にもなく拒否し続けた。夢のような高額のギャラを提示され、全世界のテレビで放映され、コンパクト・ディスクやヴィデオでも発売される一大イヴェントだというのに。「ついにクライバーがシュトラウスを振る!」と「クーリエ」紙は12月29日に始まったプローベのことを報じた。「入場券を求める激しい嵐が吹きまくったかと思うと、あっというまに消えてしまった。ORFは中国へ初めて直接放映にするということをとくに誇りとした。クライバーは本当に指揮するのかという、おきまりの疑い深い質問など、この際すべき筋合いのものではない。彼はするのだ」
~同上書P259



コンサート直前のマスコミの熱狂ぶりをみてもわかる、奇蹟が起ころうとしていたのだ。
果してクライバーは、世間の心配を余所に、確かに指揮台に上った。
これほど聴衆に、世の中に喜びを与える指揮者が他にあったのかどうか。
すべてが感動だった。そして喜びに満ちていた。
なぜなら、クライバーの事前の徹底的な準備とリサーチが功を奏したのであり、クライバーはそれだけ詳細を詰めずにはいられない性格の持ち主だったからだ。
クライバーはヨハン・シュトラウスやヨゼフ・シュトラウスの作品を軽いとは思わず、ニューイヤー・コンサートにベートーヴェンやブラームスのプログラムを組むような意気込みで取りかかった。クライバーはヨハン・シュトラウス協会の会長フランツ・マイラーを訪ねた。マイラーはこのコンサートを学究的な分野で支え、プログラムの企画に参画した。彼は1954年にエーリヒ・クライバーとウィーンで一緒に仕事をしたことがあった。カルロスは当時、父とともにウィーンに滞在していたが、もちろんマイラーとは面識がなかった。カルロスとマイラーは1988年にホテル「インペリアール」でシュトラウスの音楽について一時間たっぷり意見を交換し合った。マイラーはカルロスから強い感銘を受けた、「話題になったのはシュトラウスのことだけだった。クラウスはクレメンス・クラウスにたびたび言及し、その後その伝記作者ゲッツ・クラウス・ケンデと会合を持った」。マイラーはクライバーにまったくスター気取りがないのに驚いた、「彼はとても人好きがした。きさくで頓着なく、うぬぼれたところもなかった。彼がわたしの住居を訪ねて来たとき、そっけない部屋なのにとても居心地良くしているように見えた」。
~同上書P260
純真素朴なカルロス・クライバーならではのエピソードである。
彼は無邪気で誰からも愛された。(ただ、ひとたび捻じれると感情的になり、すべてを投げ出してしまう短絡さが玉に瑕だった)
当時、2枚組でリリースされたCDだが、どういうわけか僕の手もとにあるのは3曲目のワルツ「我が家で」作品361がカットされた1枚もの(どうしてこの音盤を購入したのか記憶が定かでない)。(六本木WAVEで、税別輸入盤2,200円だった)
マエストロはCD化に当って曲目が減らされるのを拒否した。だが彼の要求を受け入れれば一枚のCDに全部が入りきらない。コンサートの演目を全部収録するにはかなりコストのかさむ二枚組のCDにしなければならない。ほんのわずかの時間の超過のために。
~同上書P264
(こんな背景、事情があったにもかかわらず)
それでも夢見るような数十分。
冒頭の「加速度円舞曲」からカルロス・クライバーの世界に持っていかれる。
(それこそ映像がなくとも音響だけでカルロスの蝶のように優雅な指揮姿が見えるのだ)
(ただし、DVD版も見どころ満載の、未だに色褪せないニューイヤーなので必携)
この「とんぼ」を初めて聴いたとき、痺れた。
指揮と音楽が完全に同化していて、こんなに可憐で心に迫る小さな音楽があったのかと唸ったくらい。(これはぜひ映像で観ていただきたい)
十八番の「こうもり」序曲は、やっぱりカルロス!
(1986年のバイエルン国立管との来日公演でのアンコールが忘れらない思い出!)

あるいは「クラップフェンの森で」も、まるでその森にあるかのような錯覚に襲われるほど現実的な音がするのである。こういう音楽の巧みな描写力こそカルロスの天才そのものだろうと思う。
意外にも「騎士パズマン」からのチャルダーシュのエキゾチックな響きがカルロスのローカルな一面を髣髴とさせて面白い。
名曲「春の声」、傑作「美しく青きドナウ」については言及するまでもない。
カルロス・クライバーの音楽がここにある。
