ベーメ ホップ ビョーナー ネッカー ヴァルナイ クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管 ワーグナー 歌劇「ローエングリン」(1963.9.2Live)

僕は1963年9月のバイエルン国立歌劇場におけるクナッパーツブッシュ指揮の歌劇「ローエングリン」について少々誤解していたように思う。久しぶりにこのセットをひもとき、第1幕から丁寧に聴き込んだとき、音質を超え、時に鬼気迫り、時に抒情的な演奏の志向に言葉を失った。想像以上に中庸のテンポで奏される前奏曲はもちろんのこと、ライヴ録音ならではの生命力がどの瞬間にも刻まれ、何よりクナッパーツブッシュのワーグナーへの尊敬の念が反映された見事な演奏に感激した(人間の耳や感性というのは実に良い加減なものだ)。

シャルル・ボードレールの散文詩「巴里の憂鬱」エピローグ最後のフレーズはこうだ。

おお、我れは汝を愛す、現在の首府! 娼婦らよ、強盗どもよ、汝らの、神を信ぜぬ俗人の絶えて知るなき快楽を、げにかくも屢々捧げ齎すかな。
ボードレール/三好達治訳「巴里の憂鬱」(新潮文庫)P185

フランスという国でワーグナーの天才を認知した最初の人がボードレールであるならば、彼の愛したものはワーグナーの聖なる側面というより俗人的な衣装を纏った、その外観にこそシンパシーを覚えたのではないだろうか。歌劇「タンホイザー」パリ公演にまつわる小論はワーグナー受容史の中で確かに重要なものではあるが、ワーグナー音楽への果てしなき愛着の源泉が、ワーグナーの音楽が自分の音楽であると断言した書簡にこそより一層ワーグナーの音楽の重要性、それがもたらす後世への多大なる影響を早予言した嚆矢があると思われる。

何にせよ、「あなたは私を、本来の私へと呼び戻してくれた」と結び、ワーグナー芸術を手放しで賛美するボードレールの慧眼よ。

変転する世界の中で、いつの時代も、どんな場所においても保守と革新が鎬を削るのが世の常。改革派ワーグナーも、おそらくボードレール同様、時代の最先端を走りながら切り開いてきたのだということがわかる。

もう少し言わせていただければ、比類なく完全な芸術作品の実現も夢ではないという確信をますますはっきりと抱くようになった芸術家が、ちまちまとした平凡な仕事がほとんどで、」彼を夢中にした理想とはおよそ正反対の様相を呈している芸術ジャンルと日常的に関わっているうちに、その強力な呪縛の圏内に封じ込められて心の底に不満が鬱積し、ついにはそれが耐え難いまでに大きくなったのだ。私としてもいろいろと努力を重ね、オペラ劇場自身による内部改革も促したし、きわめて希にしか達成し得ないほど高いところに活動全般の水準を設定して明確な方向を打ち出すことによって、オペラ劇場そのものを私の望んでいる理想の実現へと向かわせるべくシュシュの提案も行なった—しかし、こうした苦労もすべて徒労に終った。最後には、近代の演劇文化、そのなかでも特にオペラ文化が何を目指しているのかはっきり思い知らされ、この否定し難い認識に嘔吐と絶望を覚えた私は、改革への一切の努力を放棄して、あの愚にもつかぬ組織からすっかり手を引いてしまった。
池上純一訳「未来音楽」 フランスの友(Fr.ヴィヨへ)—私のオペラ台本の散文訳への序文にかえて—(1860)
三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P117-118

ボードレールがワーグナー宛の書簡を書いたのとほぼ時を同じくして書かれた論文「未来音楽」は、確固たる天才のエゴイズムぶり(?)が発揮されたものだが、時代を、世界を牽引していくという意味で、いよいよ狼煙の上がった瞬間だったのだろうと思う。

衰退したオペラ芸術の復興のためにも単なる気晴らし的娯楽としてのオペラではなく、人間の精神がとらえ得る最も気高い芸術オペラを提供せねばならぬと確信したワーグナーはそもそも社会基盤から変革せねばならないことに気づき、作品を徹底的に磨き上げ、世に問うていった。

『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』そして『ローエングリン』と続く最初の3つの台本は一連の理論的著作を執筆する以前に書き上げて作曲も終え、『ローエングリン』以外は舞台でも上演済みであった。したがって、これを順に読んでゆけば(題材だけを手掛りにしてこうした議論を組み立てることが十分に可能であると仮定したうえでの話ではあるが)、私の芸術的創造力が次第に展開されてゆき、ついには自分自身の手法について一度理論的な総括を行なっておこうと痛感するようになるまでの過程が明らかになるのではないかと思う。こんなことを言うのは、ほかでもない、ワーグナーは自分で立てた抽象的な規則に合わせようと考えて計画的にこの3つの作品を書いたのだ、と無理にでも思い込もうとしている連中のとんでもない誤解を指摘しておきたかったからだ。実態はむしろ、同時にもう一方でニーベルングの壮大なドラマの計画を胸中にあたため、一部はすでに台本の執筆にも着手しながら構想を練り上げてゆくうちに、演劇=音楽的な芸術様式を実現すべし、という大胆きわまりない結論が自然に浮かび上がって来たのであるから、私の理論は自分自身の内部で次第に形を成していった芸術創造の過程を抽象的に表現し直したものに過ぎないと見るべきであろう。
~同上書P148-149

それにしてもワーグナーの全体を共有し、俯瞰できる才能には舌を巻く。すべての作品が無意識に(?)計算されたプロセスの中でつながりをもって生み出されたものであることを知るにつけ、感嘆の思いを抱かずにいられない。

・ワーグナー:歌劇「ローエングリン」
クルト・ベーメ(ハインリヒ・デア・フォーグラー、バス)
ハンス・ホップ(ローエングリン、テノール)
イングリート・ビョーナー(エルザ・フォン・ブラバント、ソプラノ)
ハンス・ギュンター・ネッカー(フリードリヒ・フォン・テルラムント、バリトン)
アストリッド・ヴァルナイ(オルトルート、メゾソプラノ)
ヨーゼフ・メッテルニヒ(伝令、バリトン)
ハインリヒ・ウェーバー(ブラバントの貴族1、テノール)
マルティン・マイヤー(ブラバントの貴族2、テノール)
ハンス=ブルーノ・エルンスト(ブラバントの貴族3、バス)
エーベルハルト・ゲオルギィ(ブラバントの貴族4、バス)
モニカ・キーンツル(小姓1、ソプラノ)
ユッタ・ゴル(小姓2、ソプラノ)
ハイディ・ヴィカリ(小姓3、アルト)
ブリギッテ・ファスベンダー(小姓4、メゾソプラノ)
ジスリンデ・スクロブリン(エルザの弟ヘルツォーク・ゴットフリート)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団(1963.9.2Live)

幕が進むごとに手に汗握る舞台と音楽に、最晩年のクナッパーツブッシュのワーグナーへの揺るぎない信仰(?)を思う。やはり第2幕が肝だ。

過去記事(2017年12月31日)
過去記事(2021年6月14日)

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