
巨大で至高の大作品が後に控えると、比べればそれほどではない、標準的な規模の前作、という評価がありがちだが、その一例として、《マタイ受難曲》に対する《ヨハネ受難曲》の対比に似ているかもしれない。実はどちらが代表作とは言いがたい、含蓄あるもうひとつの“傑作”、というバッハ創作観ではすでに認知された評価が、ここにも為されて然るべきではないか。そしてまた、同時代の作曲家には何曲も書く機会があったのに彼においては生涯に2曲しか創らなかったジャンル、という意味でもバッハの2受難曲とベートーヴェンの2ミサ曲は類似している。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P645-646
僕はこの指摘に思わず膝を打った。
後世の人間が陥る罠というか、錯覚というか、大作ミサ・ソレムニスにばかり気をとられ、大事な、重要作ミサ曲ハ長調を軽視してきた愚かさに、僕は自分を恥じた。
しばらく僕はミサ曲ハ長調漬けになった。
中でも、レイフ・セーゲルスタムが渾身の指揮で音楽を飛翔させる最新の録音を繰り返し聴いて、その素晴らしさに圧倒された。音楽はミサ・ソレムニスに比してとっつきやすく、旋律もハーモニーもあまりに美しく、ベートーヴェンの信仰心を煽るその力に感動した。
第1曲キリエの柔らかさ、というより慈しみの光に心が震える。また、第2曲グローリアの敬虔な独唱と合唱の交差に涙がこぼれるくらい。特にヘ長調に転じ、テノールと合唱が交互に賛美を捧げる個所のあまりの美しさ。そして、最長の第3曲クレドの堂々たる威風は、最後のフーガをもってベートーヴェンのキリスト教を超えた信仰のすべてを語り尽くすようで感動的だ。第4曲サンクトゥスは、冒頭の合唱のあまりの純粋な透明さ、静けさが素晴らしい。さらに第5曲アニュス・デイの深遠なる安寧を喚起する、まるでブラームスの第3交響曲を思わせる音調の頻出に、ベートーヴェンが心から世界の統一を望んでいただろうことを想像するのである。
ちなみに、「レオノーレ」前に取り組もうとしていた初オペラ「ヴェスタの火」の断章、すなわちそれは第1幕第1場のみだが、音楽は新しく、また親しみやすいもので、セーゲルスタムの演奏も実に堂に入ったもの。
ベートーヴェン自身が初めてオペラ作曲に向かったのはアン・デア・ヴィーン劇場のシカネーダーから依頼が来たときであり、それは1803年12月のことと思われる。シカネーダー台本に作曲する契約が結ばれて、同劇場付属の居室に居住させられるが、しかし台本はなかなか調わず、その間にシンフォニー第3番が一気に進行して、10月頃にその概略が完成した。《ヴェスタの火》Unv15の台本はその頃ようやく出来上がって、すぐに着手するも、作曲の進行とともに台本の欠陥が目に付くようになり、12月までには、スケッチと第1幕第1場のスコア(演奏時間にして10分強くらいの分量)を遺して作曲を放棄する。
~同上書P484
音楽だけをとってみると、さすがに「エロイカ」作曲当時の革新的手法が随所に垣間見られ、何より後半の、ポラス、サルタゴネスとマロの三重唱のシーンの勢いと推進力が特に好い。エマヌエル・シカネーダーの台本が古めかしく思えたのだろうか、今となっては未完であることが残念でならない。