クナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィル ブルックナー 交響曲第8番(1951.1.8Live)ほか

ところでこの新交響曲の受けはどうだったろうか? 荒れ狂うような歓呼、1階の立ち見席からはハンカチがひるがえり、数え切れないほどのアンコールがあり、月桂冠がさし出される等々。いずれにせよ、ブルックナーにとってはこの演奏会は大成功であった。
(エドゥアルド・ハンスリック/海老沢敏訳「『第8交響曲』の初演に際して」)
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P123

ハンスリックも認めるように、アントン・ブルックナーの交響曲第8番のハンス・リヒターによる初演は、まずは大成功を収めた。しかし、この長大な音楽を彼が真に理解できたかどうかは謎だ。

ブルックナーのハ短調交響曲の非常な〈深さ〉について、前もってたいへん刺戟的な風評が流れたので、私も総譜の研究や総練習を見に行くことによって、しかるべき準備をおさおさ怠りはしなかった。しかしながら白状しなければならないのは、この世界を包括するような作品の秘儀は、理解力が一篇の解説的なプログラムのかたちで、私の手に与えられてはじめて私に明かされたことである。このプログラムの作者は明記されていなかったが、私たちはたやすく〈シャルク〉だと推測するのである。彼はすくなくとも作曲家には憎まれているのだ。
(エドゥアルド・ハンスリック/海老沢敏訳「『第8交響曲』の初演に際して」)
~同上書P123

残念ながらヨーゼフ・シャルクの解説の力を借りてもハンスリックはブルックナーの交響曲を理解することはできなかった。むしろ彼には、この作品が途方に暮れる、荒唐無稽な産物であるとしか見えなかった。真に理解するに早過ぎたのである。可哀想に。

晩年、偉大なる終楽章にそれこそ荒唐無稽なカットを施し、無残な録音を残したオットー・クレンペラーも、ライヴでは動的な、真面な演奏を試みていたのだから、あれは一体何だったのか? 躁鬱病を有していた彼の、躁状態のとき特有の、独断と偏見に満ちた横暴だったとしか思えない。何より充溢するエネルギーとパッション。テンポも概して速めだ。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ノヴァーク版1889/90稿)
オットー・クレンペラー指揮ケルン放送交響楽団(1957.6.7Live)

ライヴとはいえ、50年代後半の放送局の録音は鮮明で聴きやすい。中庸のテンポで堂々と佇む第1楽章アレグロ・モデラートが素晴らしい。一方、第2楽章スケルツォはクレンペラーらしからぬ快速テンポでせかせかと進められる。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1949.3.14Live)

ブルックナーには不要な(?)緊張のドラマに終始するフルトヴェングラーならではの解釈に戸惑うも、実際に客席で聴いたなら想像を絶する感動が得られたのではないかと思わせる、「闘争から勝利へ」をモットーにするような演奏。ただし、第3楽章アダージョは極めて美しい。ここでは、フルトヴェングラーの祈りの念が刻印され、ブルックナーの安息の想念が見事に表現されているように僕には思われる。同様に終楽章の圧巻のドラマにこそ、フルトヴェングラーならではのブルックナーがある。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.1.8Live)

そして、ほぼ同時期のクナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルのティタニア・パラストでのライヴ録音を聴くにつけ、指揮者の解釈が作品に与える影響の大きさをあらためて実感する。最晩年の解釈に比べてクナッパーツブッシュのテンポは颯爽と速めだ。しかし、内なる呼吸の深さたるや人後に落ちず、第1楽章から明らかにこの人の指揮によるものだということがわかる。ライヴならではの即興性と凄みを兼ね備えた名演奏である。

クナッパーツブッシュがブルックナーの交響曲と内的に強く結び合わされていたことを知らせてくれる事実がひとつあります。
何年か前、私はクナッパーツブッシュの未亡人を訪ねましたが、そこで彼のブルックナー交響曲の演奏に話が及びました。そのとき、彼女は幸福そうに回想して、自分からこう語ったのです。「主人はブルックナーの《第8》を、バイロイトで演奏する《パルジファル》と同じくらい愛していたのですよ!」

フランツ・ブラウン著/野口剛夫編訳「クナッパーツブッシュの想い出」(芸術現代社)P105

崇高な第3楽章アダージョの祈り(フルトヴェングラーのそれとは桁が違う)を経て、終楽章が圧巻。地を這うように弦はうねり、打楽器は轟き、管楽器が咆える様は、クナッパーツブッシュのトレードマークたる音調(予想以上にテンポの伸縮激しいが)。第2主題で一気にテンポを落とし、深淵からのぞき込むように第3主題が奏されるときの得も言われぬ感動よ。例によってコーダの凄みに圧倒され、僕は思わずため息をついた。

1887年9月19日、ブルックナーはその総譜をヘルマン・レーヴィに送るのだが、レーヴィはどうしてよいかわからず、ヨーゼフ・シャルクに意見を求めた。レーヴィの2通の手紙の間にあるべきシャルクの返信は、失われたか、これまで姿を現したことはない。それに対して、レーヴィの第2の手紙に当てた返信が残っている。シャルクはその中で、1887年10月18日におけるブルックナーのひどい落胆ぶりについて報告している。こうしてブルックナーは、第8交響曲の改作を決心し、それに際して、周囲の忠告に従ったのである。
レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P160-161

奇しくも版が異なる3種のライヴ録音を聴いて、すべてがブルックナーの足跡であり、それを世に送った後世の研究者(ロベルト・ハースやレオポルト・ノヴァーク等)の努力による賜物であることにあらためて感謝の思いが湧き起こる。「音楽はやはり生きているのだ」と思う。

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