
ベートーヴェンの歌曲は概ね自己告白である。歌曲において彼はきわめて主観的に振舞っている。彼は神と世界について、信仰、希望、あきらめ、恋について語る。
(カール・シューマン/高橋義人訳)
「消えるがいい、私の光よ!」という言葉で始まる歌曲「あきらめ」(1817年作曲)。フィッシャー=ディースカウの歌唱は、文字通りベートーヴェンの当時の諦念を丁寧に紡ぐ。「楽聖」と呼ばれた天才も、実際に生き、現実に生活をしていたことを忘れてはなるまい。
大崎滋生氏の「ベートーヴェン像再構築」を読むにつけ、一人の天才の心の内やプライベートまでリアルに垣間見ることができるのだが、そこからは歴史的背景、当時の社会的状況までもが具に読み取れ、ベートーヴェンは理想でも空想の人でもなく、仕事上の交渉事あり、また借金や法廷闘争もありという、僕たち同様生活している人だった。
1809年夏以降、急に、それまでの彼の作風とは違った、演奏容易であることに十分に配慮したピアノ曲、そして歌曲の創作に集中していったのには、結婚生活を始めるための資金稼ぎという側面もあったのではないか、と思わせるのである。「パンのための仕事」というフレーズは彼の口癖のようになるが、それは、現実として確かにそうではあるけれども、だからといって手抜きをするというのではもちろんなく、格調の高い傑作もまた「パンのための仕事」の一環として生み出される、という広い意味を持っている。しかし、この時期には、いわば極めつけの「パンのための仕事」と言ってもよい創作活動がしばらく見られるのである。年金支給が契約書の額面通りに履行されればともかく、その大いなる目減りを眼前にし、それだけではとても妻帯が可能ではない。大作は時間のかかる割には即座に収入に結びつくわけではなく、継続的に安定した収入を得るためには、市場価値の高い通俗的作品を生み出す必要を感じたのではないか。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P754-755
一介の人としてのベートーヴェン像が明確になるにつれ、ベートーヴェンという人間により親近感が湧き、彼の普段あまり顧みることのなかった諸作にも僕は一層興味を持てるようになった。その一つが歌曲だ。
不思議なのは、(あくまで個人的印象だが)男声よりも女声のための歌曲の方がより充実し、旋律の妙に富むと感じることか。
胸を締めつける、極めて個人的な心情告白がすべての「歌」に刻み込まれる。
フィッシャー=ディースカウの歌は、やっぱり知性的で、心の襞の隅々までを表現する。一方、シュトルテの歌はどちらかというと情感こもり、優しい。そして、シュライヤーは、あくまで明るく朗らかにベートーヴェンの思いを表現する。
例えば、「さようなら、喜びと苦しみを与えてくれた人」と始められる「モリーの別れ」作品52-5は、悲しみよりも別れの安堵を上手く表現するシュトルテの歌唱に僕は感銘を受けるのだ。
「よき歌はわが導き手だった。私はできるだけよどみなく作曲するように心がけたし、健全な理性の法廷、清らかな趣味の法廷にたっても、心に恥じるところがない。」こうベートーヴェンは、ルードルフ大公のための音楽教本草案のなかに記している。
(カール・シューマン/高橋義人訳)
それこそ極めつけの「パンのための仕事」だったのか、どちらかというと作品番号のない作品たちの方がより身近だ。
おじゃまします。このCDを聴いてみました。ベートーヴェンの歌曲は、ベートーヴェンのその時の心情をよく表わしている分野とは思っているのですが、まだよく知らない領域で、フィッシャー=ディースカウのベートーヴェンも初めて聴きました。「あきらめ」の中、「消えよ 我が燈し!おまえに必要だったもの それはいまや去ってしまった」の意気消沈、「ここではもはや見つけ出すことはできない」の自己憐憫、「かつておまえは勢いよく燃え上がった」の高揚、「空気が流れ去り 炎が迷い漂う時 求めても見出すことはない」の自嘲、「いまやおまえは自らを融解せねばならない」の断固とした決別など、様々な心模様を自在に表現する歌声に感銘を受けました。
ベートーヴェンは自分が人生で痛切に経験した感情を表す詩を、その時々によく見つけるものだと感心するのですが、この詩もベートーヴェンが日記の冒頭に書いていたこと、「服従、おまえの運命への心底からの服従・・・おまえは自分のための人間であってはならぬ、ひたすら他者のためだけに・・・もはや私には、自分を人生につなぎとめる何ものもあってはならないのだ。」を思い起こさせます。他には、アントーニエ・ブレンターノに自筆譜を贈ったWoO140「恋人に」は、悩み多く病気がちだったというアントーニエを慰めるのにぴったりの歌詞、Op98の「遥かなる恋人に」も遠くフランクフルトに去ったアントーニエへの想いを彷彿とさせる歌詞です。
本ブログの中の「よき歌はわが導き手だった。私はできるだけよどみなく作曲するように心がけたし、健全な理性の法廷、清らかな趣味の法廷にたっても、心に恥じるところがない。」とのベートーヴェンの言葉を初めて知りました。この言葉からベートーヴェンは自分の心の危機を、優れた詩の言葉に救われたりあるべき方向に導かれたりして乗り越えてきたのだなあ、と合点しました。
ところで、大崎滋生氏の「この時期には、いわば極めつけの『パンのための仕事』と言ってもよい創作活動がしばらく見られるのである。」の「この時期」とは1809年、1810年あたりのことだと思われるので、1816年作曲の「あきらめ」や「遥かなる恋人に」は、体調不良の中、自己の心情を告白するための創作だったと思うのです。また、心情告白的なものだったから、歌曲には作品番号がないものが多いのでは?と思うところです。
これからは、できるだけ多くの歌曲を知ったり口づさんだりしたいものと思います。ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
ご指摘ありがとうございます。
それにしてもベートーヴェンの歌曲は世間でもっと聴かれるべきだと思います。
ただ生活するためだけに創造したものでなく、おっしゃるようにまさに心情告白的作品も多く存在するので、彼の人となり、心の内を知るにうってつけの材料だと思うので。
聴けば聴くほどに味わい深い代物です。
岡本 浩和 様
ありがとうございます。 ベートーヴェンの歌曲の味わいをもう十分に知っておられる岡本様を羨ましく思います。今回、ドイツの詩の素晴らしさ、ベートーヴェンのメロディーの素直さや善良さなどに触れ、人生を渡っていくのに心の友となる歌たちではないか、と思いました。
以前、WoO140の「恋人に」の、ギターの上手なアントーニエ・ブレンターノのために書いたのであろうギター用の伴奏譜があることを知り、取り寄せて練習したことがありました。当時のドイツ・オーストリアの人々は普通に家庭で楽器を演奏したり、歌を歌ったりして楽しんでいたのかーと、圧倒されました。ベートーヴェンは楽譜を買い求めるそんな人々にも支えられていたんですね。ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
いえいえ、ベートーヴェンの世界は奥深く、僕などもまだまだです。人生をかけて聴いていきたいと思っております。(笑)
ギターで練習されたのですか!!すごいですね!羨ましいです。
岡本 浩和 様
ありがとうございます。アントーニエさんに少しでも近づきたいという魂胆でしたが容易なことではありませんでした。
岡本様がまたベートーヴェンの歌曲を聴かれて思われたことを書いてくださるのを楽しみにしています。
>桜成 裕子 様
ありがとうございます。僕も少しずつ挑戦し、器を広げていきます。