
どうしてかくも哀しく、また美しいのか。
オペラは実際に舞台に触れるべきだと思う。
しかし、音だけで、これほどの感動を喚起するのはやはり指揮者の只ならぬ才能によるものに違いない。否、そもそもの音楽に、人心を揺るがし、とらえるだけの大いなる力が秘められていることは間違いないだろう。
よかろう。創造力の富むすべての天才の大いなる秘密とは、自らの魂―これは全能者の一部だが―の内に包含されている美や富、壮大さや崇高さを自分のものとするための力、その豊かさを他人に伝えるためのあの力を、彼らが持っていることだ。意識的に目的を明確にして自らの魂の力を自分のものとすること―これこそ究極の秘密といえる。
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P174
魂の力を認識し、その豊かさを人に分かち合うことができる力こそ、天才に与えられた秘儀なのだとジャコモ・プッチーニは言う。彼のこの言葉にすべてが集約される。
歌劇「ラ・ボエーム」。あまりに人間的な悲恋の青春物語の予定調和(?)に内心抵抗を覚えるも、プッチーニの音楽の力に思わず入り込んでしまう。産みの苦しみ―推敲を重ねた作曲家の努力の結晶たる傑作が、稀代の歌手たちによって見事に再生される様子にまずは感動だ。
第4幕だ―私はミミの死によって聴衆の心の琴線をグイと引き寄せたかった。管弦楽には大げさな表現を与えずにだ。私はあの一場面に何日もの間呻吟し、たっぷり考え抜いたすえに、こう決心した。同じ和音を保つだけで、聴く者に対してロドルフォの胸が張り裂けんばかりの哀歌への最善の備えをさせる、と。
“Che vuol dire quell’andare e venire.”
「どういう意味なんだ、そんなに行ったり来たりして、」
断言するが、歌劇場に足を運ぶいかなる聴衆も、私が《ラ・ボエーム》の最後の音譜を書き終えた時の半分も心を動かされることはないだろう。私は感情を抑え切れず、赤子のように泣き叫んだ。その哀しみたるや、すさまじいものだった」。
~同上書P186-187
この言葉だけで、「ラ・ボエーム」は永遠だ。
小気味良く音楽が奏され、起伏をもって進められる(恋の始まる)第1幕と、悲劇的な結末を迎える第4幕の人間ドラマを僕は好む。それこそ生と死が表裏でつながっているのだと思わせる、人の世の情と、あの世のシンクロが僕には感じられるのだ。いずれも舞台が町はずれの安アパートの「屋根裏部屋」であることが象徴的(真の世界は決して表には出ない)。
第1幕ロドルフォのアリア「冷たい手を」における、パヴァロッティのいかにも彼らしい明朗で力のある歌唱と、続くフレーニ扮するミミの応答アリア「私の名はミミ」の、少しばかり暗い(?)印象の歌に(わかっているのに)異様に心が動く。
そして、プッチーニ渾身の終幕を、途轍もない集中力と怒涛の色彩で描く、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの業が魅力的。何という抒情!!!