
きのう、最愛の夫が歌曲をひとつ歌ってくれた。それは、数日まえに彼が私の楽譜「ジークフリート」のピアノ用楽譜のなかに入れておいたものであった。私がその歌劇をピアノで弾くとき、その歌曲を自分で発見するだろうと、彼は望んでいたのだった。それは彼のつくった最初の愛の歌であった。「おまえによせた内々の訓戒だ」、と彼はいった。それはリュッケルトの詩「なれは愛す、美をもとめて」である。最後の歌曲「われを愛したまえ、永久に」は真心のこもったもので、ずっとのちの今日でさえそれを目にすると、私は感動にうちひしがれてしまうのだ。彼の測り知れぬ豊かさにくらべて、なんと私はみじめなのだろう、私はときおりそう感じている。
(1902年8月)
~アルマ・マーラー=ウェルフェル/塚越敏・宮下啓三訳「わが愛の遍歴」(筑摩書房)P26
アルマの手記には、グスタフ・マーラーの「関白宣言」(劣等感の顕現)ともいうべき「訓戒」が、彼女への愛の歌として生み出されたものだと証言されている(事の真偽は不明だが)。
レナード・バーンスタインがピアノ伴奏を務めた、フィッシャー=ディースカウによる録音には、残念ながら、マーラーがアルマに歌ってきかせた第5曲「美しさゆえに愛するのなら」が欠落している。たとえそれでも、彼らの「リュッケルトの詩による歌曲集」は見事な出来だ(第3曲「私はこの世から姿を消した」が絶美!!)。全盛期のフィッシャー=ディースカウのふくよかで知性満ちる歌唱はもちろんのこと、バーンスタインのニュアンス豊かな(作曲家であるがゆえの心情を上手くとらえ音化した)ピアノの勝利とも言うべきか。すべてが一体となって、グスタフ・マーラーの心情を完璧に表現しているのである。
そして、「若き日の歌」の、声質を縦横に操り、詩の心を詩人以上に巧みに歌い切るフィッシャー=ディースカウの魔法(例えば、「腹立たしげな調子で」と指定される第14曲「うぬぼれ」における余裕の歌唱!!)。
52年前のちょうど今頃、ニューヨークは30番街のスタジオにてこの録音が行なわれていた。まるでたった今目の前で奏でられるかのように、バーンスタインのピアノは煌びやかで生々しい。
フィッシャー=ディースカウの「さすらう若人の歌」は、フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団と録音したEMI盤が必携盤だが、続いてバーンスタインとのピアノ伴奏によるこの録音が心に響く。あの当時よりも一層歌唱に磨きがかかり、壮年期の余裕と、変幻自在に表情が移ろうその力量が素晴らしい。何より音楽の明朗さと哀感の同居を見事に描き切る様に感動(バーンスタインのピアノ演奏は奔放でまた自在で、歌手の能力を最大限に引き出すエネルギーを持つ)。