ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管 ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」(1983.5録音)ほか

《1905年》と名付けられてはいるが、現代の主題を扱っていたのである。これは、数々の悪行に耐え切れなくなった国民についての作品である。
ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P418

「証言」の真偽すら定かでない。しかし、仮に作曲家のこの言葉が「正」であるとしても、歴史は風化する。誰もそんな時代のことを知らないときに、果たして作曲家の思念が重要になるのかといえば、僕はそうは思わない。作品そのものの、音楽そのものの力を感じられるなら、それで良いのではないかとすら最近は思う。

ベルナルト・ハイティンクの解釈は、標題を無視した、あくまで絶対交響曲として作品を捉えるという方法だ。音楽は終始重い。ただ、そこには一切の思想も感情もない。体制に迎合することを拒否する作曲家の無意識をひたすら丁寧に音化する意志が、途轍もなく鋭い。

ショスタコーヴィチ研究家のサビーニナは、交響曲第11番を次のように批判した。

とうとう彼は屈服して、わたしの知る限りでは、2週間後に生気のない、気の抜けたスコアを書き上げた。《第11交響曲》には、まだいくつか感動的な素材がある。例えば、第3楽章の平和的な示威行進に対して発砲する場面の描写は、ソ連の大量処刑、つまりスターリンの報復を連想させるし、革命前の重労働や流刑を歌う革命家の旋律を引用している第1楽章は、「グラーグ(強制労働収容所)」の犠牲者や、ラーゲリや監獄で死んだ何百万という人々を思い出させる。
(森田稔「時代の証言としての交響曲」)
「ショスタコーヴィチ大研究」(春秋社)P123

作品には確かに革命歌の引用が頻出し、それは体制に迎合した、血腥い音楽であることには違いない。しかし、そういった歴史や記憶をあえて封印し、ただ純粋にショスタコーヴィチの音楽だけを感じとろうとしたとき、筆舌に尽くし難い音のドラマがあり、どの瞬間も僕たちの脳髄までを刺激する力が漲っている。それは、ムラヴィンスキーの厳しさとは異なる、あるいは、ロジェストヴェンスキーの激しさとも違う、他民族であるがゆえの客観性をもつ、実に優れた、心に染み入る演奏なのである。耳をつんざく金管群の咆哮と打楽器のアクロバティックな轟きが真我を呼び覚ますようだ。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第11番ト短調作品103「1905年」(1957)(1983.5.2-4録音)
・ロシアとキルギスの民謡の主題による序曲作品115(1963)(1980.12.15&16録音)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

アダージョの第1楽章「王宮広場」から、オーケストラは「全集中」で音楽を奏している。あくまで不穏な雰囲気を醸すが、どこか洗練され、明るい。アレグロ・ノン・トロッポの終楽章「警鐘」が、激烈な悲鳴を上げ、真に迫る様は、ハイティンクとコンセルトヘボウ管の真骨頂。

結局、私の音楽にすべてが語られているのだ。それには歴史的(ヒストリックな)、あるいはヒステリックな注釈など必要ない。要するに、音楽について語られるどんな言葉も音楽そのものよりは重要ではない。
ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P342

ベルナルト・ハイティンクの方法は間違っていない。
輝ける最高の瞬間がここにはある。

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