
実に内省的なのだけれど、愉悦薫る音楽の玉手箱。
そもそも演奏そのものが途轍もない集中力を持つ。
求心力の高い音楽が、3者の格別な遠心力によって、実に開放的で喜びに溢れる時間を創出する。これぞ音楽をする歓びなのだろうと思う。
1968年4月24日は、ウィーンでのリサイタルの記録。
レナード・バーンスタインの(ときに重く)弾けるピアノ伴奏に乗って、クリスタ・ルートヴィヒが、ワルター・ベリーが、グスタフ・マーラーの祈りを、想いを込めて歌う。それにしてもバーンスタインのピアノの何という表現力だろうか。
マーラーへのただならぬ愛というのか、まるで彼自身の魂と音楽とが一体となったような錯覚さえ感じられるほどの(ある種)壮絶さ。
最晩年、バーンスタインはマーラーについて語る。
すべてがひたすら彼のものなのですから、正当化など必要ありません。その音楽を作曲したのはただひとりの人間ではないんです。まさに、さまざまに異なる人間がマーラーを構成している。つまり、ユダヤ人、キリスト教徒、信仰者、懐疑論者、俗人、洗練された人間、ウィーンの「社交界の人」、家庭の愛情深い父がマーラーという人物を構成しています。そうしたものすべての構成する唯一無比の魅惑的な人格は、絶えず矛盾や苦悩や恍惚に襲われていました。
~バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P138
絶えずぶつかり合うエネルギーの中心点、すなわち真空とも言い換えて良いだろうスポットの表出こそ、マーラーの抱える矛盾を武器として音楽創造に生かしたバーンスタインの成せる業。
聖俗相まみえるマーラーの音楽を、生き生きと再生するバーンスタインの方法は、ピアノであろうと指揮であろうと実に濃厚だ。交響曲第2番に引用された第6曲「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」における、若きルートヴィヒの巧みさ。あるいは第2曲「むだな骨折り」での、ルートヴィヒとベリーの変幻自在の掛け合いが楽しい。
とはいえ、一番は「原光」だろう。ルートヴィヒの何と哀しくも美しい声、そして、静かに寄り添うバーンスタインのピアノ!