生は死と同義であり、また逆もそうだ。
例えば、この世が有限の牢獄だととらえられたとき、そしてあの世が逍遥自在な世界だと知ったとき、世界観はたぶん180度変わるのだと思う。もちろんそこには不安や恐怖などはない。
死の数年前、病に倒れ、死を目前にした父レオポルトに送った手紙の中でモーツァルトは書く。
死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています! そして、神さまが私に、死がわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)幸いにも恵んで下さったことを、ありがたいと思っています。私は、(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人はないでしょう。そしてこの仕合せを私は毎日、私の創造主に感謝し、そしてそれが私の隣人の一人一人にも与えられるようにと心から願っています。
(1787年4月4日付、ザルツブルクの父レオポルト宛)
~柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P124
果して彼の真意はわからない。
恐るべき死を受け入れんとこのように書いたのか、あるいは、本当に宇宙のからくりが腑に落ちたのか、謎だ。
それでも、この肉体が消滅するだけであって、死そのものは今生の視点からの、極めて狭い解釈だと悟り、僕たちの霊性が永遠であることを知り、すべてが喜びに変わったのだろうと思う。
死の床でヴォルフガング・アマデウスは何を思ったか。
世間が想像するほど壮絶なものではなく、決してドラマティックでもなく、とても明るく、そして幸せであったのではないかとさえ僕は思うのである。
最後の、未完の鎮魂曲を聴く。
先入観を打ち砕かれる、21世紀の、新しいモーツァルト!
南ドイツはファウテンバッハ、アルテ教会での録音。ニコル・マットはエリック・エリクソン、またフリーダー・ベルニウスを師とするドイツの合唱指揮者。
近代オーケストラの浪漫解釈に慣れた耳には、どうにも軽く聴こえてしまうのが難。
それこそ先入観、偏見を捨て、音楽の内なる真実を汲み取れるかどうか。
ことレクイエムに至っては、モーツァルトの早過ぎる死と連動させて語られるのが常であり、実際のところは彼の死とはまったく無関係のところにあるものだろうと僕などは思う。
出所が疑わしい、おそらく虚構であろうモーツァルトの死について語る「ヨーゼフ・ダイナーの手記」(1856年)には次のようにある。
モーツァルトの亡くなった夜は、暗い嵐の夜だった。浄めの式の時も、大風が吹き、雷雨が始まった。雨と雪が同時に降り、あたかも自然が世の人々とともに、偉大な作曲家のために怒っているように思われた。人々とは言っても、ほんの少ししか姿を見せなかった。少数の友人と3人の婦人が亡骸に付き添っただけだった。モーツァルト夫人は、いなかった。これら少数の人々は、雨傘を手にして、柩の周りに立っていたが、やがて広いシューラ―通りを通って聖マルクス墓地へ導かれた。嵐がますます烈しくなったので、これら少数の友人たちも、ついにシュトゥーベン門から引っ返すことにした。
~同上書P228
よくできた話だ。
ちなみに、少数の友人とは、ファン・スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー等らしい。
やっぱりよくできた話だ。
肝心のニコル・マットの演奏は、残念ながら僕の趣味には合わない。
透明感の強調された、厳しい演奏ではあるが、痛切な哀しみを訴えかける力に乏しい。
だからこそモーツァルトはまだ生きようとしていたということであり、むしろ生への希望を刻印する演奏だと解釈すればこれはこれで納得行くのだが、個人的には嘘か真か、かの伝説を信じたいと思う僕がある。
それにしても「ラクリモーサ」は泣かせる音楽だ。
あとは、「ベネディクトゥス」における四重唱も実に素晴らしい!!
(特にバスのトーマス・プファイファー!)
今日はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの233回目の忌日。