マタチッチ指揮フィルハーモニア管 ブルックナー 交響曲第3番(1983.7.23Live)

瞑想のような第2楽章アンダンテ。最晩年の、老境の巨匠の動きはおそらく鈍い。たぶんこの老大家は指揮棒を持たなかっただろう。しかし、震える10本の指で、絶美の音楽が奏でられる様。何と力強い音楽が湧き上がるのだろう。相変わらずテンポは(様式を崩さないギリギリの線で止められ)動く。開放と沈潜が交互に現われ、虚空を彷徨う如く鳴り響く。
実に革新的だ。

われわれにはこの作曲家を傷つけたいという気持は毛頭ない。人間としても芸術家としても彼に対して真の尊敬の念をいだいているし、彼の芸術の目的は、その扱いが奇妙であるとはいえ、誠実なものである。それゆえ批評するよりはむしろ謙虚な気持で、彼の巨大な交響曲は理解できなかったと認めるほうがよいだろう。詩的な意図はなんら示されなかったし、—たぶんこれはベートーヴェンの第九がヴァーグナーの《ヴァルキューレ》の味方となり、そして結局は相手に踏みにじられてしまうという光景だったのだろう—またこの音楽の首尾一貫性もうまくつかむことができなかった。作曲家がみずから指揮をして拍手を受けた。そのあとで、最後まで残っていた聴衆のなかのわずかの者たちが、他の人たちが逃げてしまったことについて彼を慰めた。
(エドゥアルト・ハンスリック「ノイエ・フライエ・プレッセ」紙1877年12月18日号)
根岸一美「作曲家◎人と作品シリーズ ブルックナー」(音楽之友社)P80-81

ハンスリックの、むしろ非攻撃的な、慇懃な評が逆に彼を傷つけたのではあるまいか。ほとんど当時の聴衆には理解不能だった音楽は、100余年を経てようやく人々の耳に正しく届くようになったのだと思う。

マタチッチの創造する音楽はごつごつしながらも自然の流れに沿った、感動的な動きを呈する。ティンパニの炸裂と金管群の厳かな響きが交錯する終楽章アレグロの(特に再現部直前から再現部にかけての)圧倒的再現にマタチッチの天才を思う。

・ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(ノヴァーク版1877年第2稿)
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮フィルハーモニア管弦楽団(1983.7.23Live)

ロンドンはロイヤル・アルバート・ホールでの実況録音。本来リラックス・ムード漂う(?)「BBCプロムス」での一コマだが、さすがにマタチッチの客演となれば様相は異なる。(もう二度と聴けないかもしれないという聴衆の想いからか)冒頭から何という緊張感に満ちるのだろう。

ところで、ヴァイオリニストの徳永二男は、特に印象に残った指揮者としてマタチッチを挙げる。

指揮者ではマタチッチ。85歳で指揮の動きも不明瞭なのに、表現したい音楽が明確に伝わり、「この人のためなら」という気持ちにさせる。自分もこんな音楽家になりたいと思いましたよ。
「ぶらあぼ」ONLINEインタビュー

謙虚な生き様が人を動かすのだろう。それにしても、生み出される音楽の神々しさよ。

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