ニルソン ホフマン クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(抜粋)(1959.9録音)

ピエール・ブーレーズの場合、音楽は絶頂に向けての冷たいパッションの顕現であり、どこまでも静かでありながら内燃する官能が沸々と聴く者を刺激する。そこではビルギット・ニルソンが、死に向かうイゾルデの諦念、否、幸福感を抑制された歌唱で見事に応えていた。

あるいはゲオルグ・ショルティの場合は、ジョン・カルショーの思惑も手伝ってか音楽の浮沈、そして徐々に高揚させ、一気にオーガズムに駆け上がる構成が実に物語的で聴く者の心をとらえて離さない。しかしそれは、とても死を目前にしたイゾルデの音楽とは到底思えない生気が漲っていた。その意味でニルソンの歌唱は生き生きとし、同時に情熱的であり、生ける者の希望を孕んでいた。

彼はオーケストラの音響を極限まで高揚させることが好きで、オーケストラにまだ強烈さが足りないと不満を感じると、何度も同じパッセージを繰り返させた。
ビルギット・ニルソン/市原和子訳「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」(春秋社)P421

血気盛んなショルティこその成せる業。
それならば、果たしてハンス・クナッパーツブッシュの場合はどうだったのか?

クナは、1回目の録音から全霊を傾けた。レコーディングの場合、同じシーンを3回も4回もやり直さなければならないことがままあるけれど、クナッパーツブッシュの場合、そんなことはできない相談だった。プロデューサーが大いなる説得術を尽くして、彼にトリスタンのシーンを繰り返すよう頼もうとしようものなら、もう終わりだ。彼は目にみえて不機嫌になった。クナは、プレイバックを聴くためにコントロール・ルームに入ることさえせず、家に帰れるかどうか、プロデューサーの決定を外でジリジリしながら待っていた。こんな状態を見ると、クナッパーツブッシュは録音には向かない指揮者と言えよう。スタジオのなかという水のないところで泳ぐより、オペラ公演という海の大波を好んだのだ。
~同上書P414

おそらくほとんど一発録りの可能性がある。
それでも自家薬籠中の「トリスタンとイゾルデ」は、第1幕前奏曲とグレース・ホフマン扮するブランゲーネとの第3場、そして終幕「イゾルデの愛の死」というわずか40分に満たない録音から、比較のしようのないエロスとタナトスの奔流が手に取るようにわかり、面白い(全曲が録音されていたら途轍もない名盤になっていたことだろう)。クナッパーツブッシュならではの深い呼吸と驚くべき音のうねりの中に身を投じたとき、たとえ重要な経過を端折られていたとしても、トリスタンとイゾルデの物語が時空を超え僕の心を鷲づかみにし、同時にニルソンの歌が僕の魂を震撼させる。

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(抜粋)
・第1幕前奏曲
・第1幕第3場「ああ、辛うございます!」
・第3幕「イゾルデの愛の死」
ビルギット・ニルソン(イゾルデ、ソプラノ)
グレース・ホフマン(ブランゲーネ、メゾソプラノ)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1959.9.22-25録音)

「イゾルデの愛の死」におけるニルソンは、クナッパーツブッシュの指揮の下、自由闊達だ。クナッパーツブッシュの発するワーグナーへのただならぬ愛情と尊敬の念に乗り、ニルソンはクライマックスに向け、自らを裸にして一体となるトリスタンへの愛を堂々と歌い上げるのだ。

オーケストラに対するクナッパーツブッシュの態度は曖昧で、楽員たちが最善を尽くそうという気分でないかぎり—大概、そうではない—ある程度以上に彼らに強制することはしなかった。
彼がフラグスタートと録音するためにウィーンへ去った後、パリにやって来たゲオルク・ショルティは違っていた。オーケストラに挑みかかり、オーケストラも挑み返した。

ジョン・カルショー著/山崎浩太郎訳「レコードはまっすぐに―あるプロデューサーの回想」(学研)P184

このことはまさに彼ら(ショルティとクナッパーツブッシュ)の生み出す音楽に対比的に表れている。
それにしても指揮者の体質、あるいは方法に合わせてカメレオンの如く変幻自在に歌唱の方法を変えられるニルソンの歌うイゾルデの素晴らしさ。

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