
ピラトの問いには答えを返したイエスも、ユダヤ教の人々の告発には、沈黙を守り通した。その沈黙に対するピラトの驚きが語られたところで、コラールが導入される。
第44曲コラールの慈悲深い旋律は、カール・リヒターの新たな解釈によって一層安らかさを増す。
お前の道と心のわずらいとを、誠かぎりない護りに委ねなさい、天を統べる者の。
雲、大気と風に、道を備え、それらをめぐり行かせる者は、
道を見つけてくださるだろう、お前の歩むことのできる道を。
~礒山雅「マタイ受難曲」(東京書籍)P338
バッハの音楽には間違いなく愛がある。
ところで、本性を開かれつつあったリヒャルト・ワーグナーの本懐を、かつてコジマは次のように日記に残している。
午後、散歩に出たわたしとリヒャルトは、埠頭で不運な犬が轢かれるのを目撃した。犬は悲鳴をあげ、身をすくませたかと思うと狂ったように空中に舞い上がり、もんどり打って落ちた。そして脇腹をぶつけて転がったのである。リヒャルトは、「フィッツォもこうだったのだ」と大声をあげた。「そうに違いない。そのときの光景が目に浮かぶようだ。あいつもボロ布みたいに、こうして投げ出されたのだ」。わたしはもう黙っていられなくなり、フィッツォに起こった事の顛末を話した。二人とも、悲しみにひどく心が沈む。「人間はどうしたって共苦の境地にはなれないのだ」とリヒャルトは言う。「自然はそれを望んでいない。人間は獣のように残酷に作られており、共苦に生きようとすれば世の中に適応できなくなる」と。共苦は言葉として口に出すのではなく、行動に表すしかないと思う。リヒャルトは、すっかり打ちひしがれている。空中に飛ばされた瀕死の犬の姿が忘れられないのである。
(1872年2月8日水曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P113-114
残念ながらワーグナーの言葉の裏には、(いかにも動物愛護精神に立ちながら)人間と動物とを区別し、人間を優位な立場の存在だと考えている節がある。そもそも霊性という観点からいえば、犬を轢いた馬車の御者(?)と犬との単なる因果の清算に過ぎないのだと言えば、元も子もないだろうが。
コジマの日記は続く。
二人でショーペンハウアーを読む。それからわたしはリヒャルトに、野蛮なものの優位barbarische Avantagenを勇気をもって認めなければならないとゲーテが語っていることを話した。するとリヒャルトは、「その通り。『ファウスト』や《第九》、バッハの受難曲などは、そうした野蛮な作品だ。つまり芸術作品としてはギリシャのアポロン像一体、ギリシャ悲劇一篇の足下にも及ばないというわけだが、個を高め、全体にのみ込まれまいとする気持ちが、わたしを未来の芸術作品に向かわせたのだ」。
~同上書P113-114
ワーグナーの言う「野蛮」とはすなわち余計な「思考」のことだろうか。ゲーテやベートーヴェン、バッハですらギリシャ古典の「理」には及ぶまいと彼は言うのである。ワーグナーは舞台総合芸術をもってギリシャ古典に近づこうとした。しかし、《第九》はともかくとして、少なくともバッハの受難曲はギリシャ古典に匹敵する人類の至宝であろうと僕は思う。
フィッシャー=ディースカウのイエスの重み、あるいはシュライアーのエヴァンゲリストの清らかさ。実にそうそうたる顔ぶれによる、カール・リヒター2度目の、そして最後の「マタイ受難曲」に無心に耳を傾ける。旧録音に比して、浪漫の度合いが増したと世間では語られるが、より人間的になったのだと僕には感じられる。それは、イエスの受難がそれこそ現実的なものだという徴のようなものだ。テンポは総じてゆっくり。見事にバッハの音楽を楽しむかのように晩年のカール・リヒターは脱力でかの受難曲を再生するのである。
ちなみに、僕が所有するのは西独プレスの最初期盤。