フルトヴェングラー指揮南ドイツ放送響 フルトヴェングラー 交響曲第2番ほか(1954.3.30Live)

1954年3月、ヴェネズエラはカラカスへの演奏旅行(ヴェネズエラ響)からスイスはチューリヒ(トーンハレに客演)を経由して、シュトゥットガルトでの演奏会(南ドイツ放送交響楽団)のため27日からはパルク・ホテルに滞在、その間の友人たちとの書簡のやり取りを読むにつけ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの最晩年の思想が垣間見え、何とも興味深い。持論を口角泡に語る論調からは、少なくとも(演奏活動のため活発に楽旅をしていた)その頃はよもや自分がその年のうちに死を迎えるだろうとは想像もしていなかったように見える。

私個人としましては、芸術のような人間の営為について語るには、人間的、生物学的根本事実を顧慮せずにはすむまいと思っています。そして、私の考えますには、可視的世界の存在と並んで、発展、構成、組成の法則も、この生物学的根本事実の一部なのです。どんなに意識的な集中の産物であるような芸術作品のなかにも、一片の生成が、精神の経験を経た論理の一断片が宿っているのです。
(1954年3月27日付、チューリヒからエーミール・プレートリウス宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P296

おそらくその頃から世界に生じていた芸術の(型にはめようとする)金太郎飴的規則性に対する彼なりの批判と見える。それを彼は、思想に偏ったことに生じる悪だと見る。同じ手紙の追伸でフルトヴェングラーは次のように書く。

私の憶測では、晩年のニーチェがその「権力への意志」ではじめて打ち出した忌まわしい力の思想は、思想以外に頼るべきものを持たない非生産的人間たちの復讐の一例ではないかと思います。
(同書簡)
~同上書P297

フルトヴェングラーは、晩年のニーチェの思想を批判的に見ていたようだが、「権力への意志」は遺稿を妹のエリーザベトが編纂したものであり、厳密にはニーチェの本来の意志、本懐とは(おそらく)かけ離れているのではないかと僕は考える。どちらかというとニーチェは、宗教にせよ、道徳にせよ、要は言葉にした時点で空言になってしまい、物事の解決には一切役立たずであることを見抜いていたのではないかとさえ思うのだ。

私たちは二つの「権力への意志」が闘争しつつあるのをみた。
この特殊の場合には、私たちは一つの原理をもっていて、これまで敗北した一方を正しいとし、これまで勝利をしめた他方を正しくないとする)。私たちは、「真の世界」は「偽られた世界」であり、道徳は一つの非道徳性の形式であるとみとめたのである。私たちは、「強者は正しからず」とは言わないのである。

ニーチェ全集12/原佑訳「権力への意志 上」(ちくま学芸文庫)P388-389

戦後のフルトヴェングラーには思想的な(あるいは芸術上の)葛藤が様々あったのかもしれない。彼の演奏行為と作曲行為、そして再生された創造物は、(僕には)彼の思想そのものに見える。

・フルトヴェングラー:交響曲第2番ホ短調
・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調作品21
・コンサート前のハンス・ミュラー=クレイのフルトヴェングラーへのインタビュー
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮南ドイツ放送交響楽団(1954.3.30Live)

自作の交響曲第2番ホ短調は、第1楽章アッサイ・モデラートから全編、異様に濃密な、しかし、抑圧された暗い情念のほとばしる名演奏。さすがに自作だけあり、フルトヴェングラーの指揮は饒舌で、やりたい放題かと言えばさにあらず。むしろ客観的に自身の内面を捉えるように、それでも熱をこめて自らの信念を世界に知らさんと丁寧に心を尽くす。30分近い終楽章の憧れに満ちた音楽が圧巻。

芸術家即哲学者。芸術の高次の概念。はたして人間は、他の人間で形態化しうるほど、彼らから遠く身をへだてることができるであろうか?(—そのための予備訓練、1 おのれ自身を形態化する者、隠遁者。2 或る素材でのささやかな完成者としての、これまでの芸術家。)
ニーチェ全集13/原佑訳「権力への意志 下」(ちくま学芸文庫)P309

フルトヴェングラーはニーチェを誤解していよう。
なぜなら、ニーチェには、芸術家に対する上記のような思想があり、同じ中で彼はまた次のように言うからだ。

芸術の起源によせて。—性的精力のありあまる脳神経系統にすぐれて固有であるところの、あの完全なものを作りあげ、完全なものと見やるはたらき(恋人と共なる夕、最もささやかな偶然も変貌され、生は崇高なことどもの連続となる、「恋に破れた者の不幸は何ものにもまして価値がある」)。他方、あらゆる完全な美しいものは、あの恋されたときの状態やこの状態に特有な物の見方の無意識的な回想として作用する―あらゆる完全性、事物のまったき美しさは
近接contiguityによってアフロディテ的浄福をふたたび呼びさます。(生理学的には、芸術家の創造的本能と、精液の血液中への分散・・・)芸術と美への憧憬は性欲の恍惚への間接的憧憬であり、この恍惚を性欲は脳髄に伝えるのである。「愛」によって、完全化された世界。

~同上書P318-319

まさにフルトヴェングラーの生み出す音楽に通底する意志がニーチェの思念の内にある。

とても淡い青春の音楽とは思えぬ、血沸き肉躍るベートーヴェン。
第1楽章アダージョ・モルト―アレグロ・コン・ブリオは、果たしてこれほどまでの重厚に鳴らす必要があるのかと思わせるほど深い。また、ほんの少し力の抜けた第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・モートは堂々たる歌。そして、喜びの第3楽章メヌエットを経て、終楽章アダージョ—アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェの、慌てず騒がず、落ち着いた枯淡の境地の感化。

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