レーゼル ブラームス 3つのインテルメッツォ作品117ほか(1972&73録音)

ブラームス晩年のエピソード。
ブルックナーの葬儀での一コマ。

午後4時近く、棺はカール教会の鐘の音に迎えられた。駆けつけたフーゴ・ヴォルフは、この葬儀を取り仕切るいずれの団体にも属さず、招待状も持っていなかったために、教会に入ることができなかった。
ブラームスも教会に足を踏み入れなかった。関係者が中に入るようにうながしたが、「もうじき私の棺を担ぐがいい」とつぶやいて立ち去ったという。クララ・シューマンはこの年5月に亡くなり、彼自身も肝臓癌の兆候を示す黄疸にかかっていた。両親がブルックナーの知人であり、当時まだ8歳だったベルンハルト・パウムガルトナーは、ブラームスが柱の陰で涙を流しているのを見たという。ブラームスはこの半年後に世を去った。

田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P318

当時、ワーグナー派対ブラームス派という音楽界の対立構造の中で、ブルックナーはワーグナー派の先鋒として周囲に持ち上げられ、本人の意志とは別に(?)、ブラームスとの関係も決して良好なものとはいえなかったのだが、それは周囲がそういう状況を作り上げただけで、本人たちはお互いにわかり合えるだけの力量をもっていたのかもしれないと、上記のエピソードを読んで思った。死を目前にした人間は、まさに本性に触れ得るのである。

ところで、クララのブラームス宛最後の手紙は、ブラームスの誕生日を祝して手が不自由になったクララが書いたものだ。何とも痛々しい。

心からのお喜びを、心からあなたの
クララ・シューマン
今はこれより書けません、でも近く
あなたの・・・

(1896年5月7日付ヨハネス宛)
ベルトルト・リッツマン編/原田光子編訳「クララ・シューマン×ヨハネス・ブラームス友情の書簡」(みすず書房)P273

そして、それに返答するブラームスの返信は、クララ宛の最後になったものだ。

長くお読みになることはきっとご無理でしょうし、私もまた他のことは書きたくありません。私だけがあなたによろしくと申し上げるのは利己主義になりましょう―どんなに多くの人々が心からあなたのために祈っていることか、あなたはご存じないでしょう―けれどもどうか私が誰よりも一番に心から祈っていることをお信じください。
(1896年5月8日付、ヨハネスからクララ宛)
~同上書P274

儚い諦念と深い慈しみの思念が哀しく綴られる。
こういう個人的な音信が公開されること自体彼は好まなかっただろう。クララへの切実なる思いが詰まった簡潔な手紙は、最晩年に生み出したピアノ小品集の哀惜と相通じるものだ。

ブラームス:
・3つのインテルメッツォ作品117
 —第1曲変ホ長調
 —第2曲変ロ短調
 —第3曲嬰ハ短調
・6つのピアノ曲作品118
 —第1曲インテルメッツォイ短調
 —第2曲インテルメッツォイ長調
 —第3曲バラードト短調
 ―第4曲インテルメッツォヘ短調
 —第5曲ロマンツェヘ長調
 —第6曲インテルメッツォ変ホ短調
・4つのピアノ曲作品119
 —第1曲インテルメッツォロ短調
 —第2曲インテルメッツォホ短調
 —第3曲インテルメッツォハ長調
 —第4曲ラプソディ変ホ長調
ペーター・レーゼル(ピアノ)(1972&73録音)

今や巨匠となったペーター・レーゼルが、20代後半のときに録音したブラームスのピアノ独奏曲全集からの1枚。ドレスデンはルカ教会での録音。
人生の酸いも甘いも経験に裏付けされた最晩年の小品集を、若きレーゼルは、単に技巧に走るのでなく、20代なりの楽観と厭世を(いわば想像しながら、夢見ながら)音に乗せて行く。それゆえに、彼の弾くブラームスは喜びに溢れているのだ。これぞ純ドイツ的オーソドックスな演奏。インテルメッツォ作品117の奇蹟(第1番変ホ長調の癒しよ)。また、重厚な、いかにもブラームスらしい作品118の美しさ(第2曲イ長調はクララへのラヴレター)。そして、作品119の威厳と安寧。最高の1枚だ。

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