
すでに繰り返し述べたように「ジャズは古典になった」という認識がわたしの考えの根底にある。それゆえに、ジャズは豊穣で叡知に満ちた「音楽的価値」の宝庫であり、その分厚い堆積層である。一つの有機的な運動体としてのジャズは、自らの上昇過程を突き当たりまで進んで発展を止め、もはや臨界を持った「閉じられた空間」を形成している。誰もそれを突き破って「外」に出ることはできない。その境界の内側では、人びとは楽しく生き生きと活動できるが、それは壁で囲まれたゲットーの中での暮らしである。
~牧野直也著「リマリックのブラッド・メルドー」(アルテス・パブリッシング)P184
牧野さんは現在のそういう状況を息苦しく感じたのだという。
人間である以上、人間が生み出したものである以上、何事も進歩・発展を止めるわけにはいかない。しかし、何にせよ人間業では限界があるのだということをこういうところからも知らしめられる。
頭打ちになるまで、ここに至るまで、天才たちがあらゆる手を尽くして拡張拡大してきたジャズにあって、その黎明期(否、発展期か?)にジャンルを超え切磋琢磨したのがガーシュウィンとラヴェルだろう。彼らは互いの才能を認め、そして互いのセンスを互いに応用しようとした。相違なものを受容して、活用達用できることこそ人類の叡智の一つだと僕は思う。
ラヴェルが晩年になって書いた2つのピアノ協奏曲の、実に簡潔なフォルムでありながら斬新なイディオムに満ち、聴く者に大いなる刺激を与える奧妙さ。今まさに牧野さんが憂える状況において、果たしてラヴェルならどうしたか。何を生み出そうとしたか。空想するのが面白い。
戦争で片腕を失くしたパウル・ヴィトゲンシュタインのために書かれた左手のための協奏曲の深遠さ、というよりあまりの格好良さに言葉がない。縦横に、自由自在に飛び交うフランソワの洗練されたピアノの音が何より美しい。この、いかにもジャズ風の、地から湧いて出る幽玄の音楽に、僕は永遠を垣間見る。
音楽がその人に訪れるとき、それを仮に「表現衝動」と呼ぶことにしよう。声を振り絞って歌いたい、タイコを叩いて恍惚となりたい、ギターの弦の響きに没入したい、自分の身体を音の湖面に投げ入れて、波動を起こし、心そのものを「音」に化身させたい。
音楽の「湧水池」はそこにある。しばしば「天から降って来る」と表明されるソングライターたちの数小節のフレーズの成立過程も、そういう衝動の一つの外化としてある。
~同上書P224
確かにかつてブラームスらが証明した「衝き動かされる」何かのそもそもの原初は、人間本来の表現欲求なのだろう。あとはその方法であり、それが陳腐なものなのか、あるいは斬新なものなのか、それはそれを使う人たちのセンスと力量による。モーリス・ラヴェルは天才だった。そして、ブラームス同様天と同化し(少なくとも創造行為のその瞬間)、天の声をキャッチすることのできる(音の)魔術師だった。
古びない、颯爽たるピアノ協奏曲ト長調の、今まさにここで創造されたかのような生命力にあわせて心が動く。フランソワのピアノはファジーで何て美しいのだろう。しかし、それにも増して素晴らしいのがクリュイタンス指揮によるパリ音楽院管弦楽団のニュアンス溢れる、雅ながら躍動感と勢いのある音楽の妙(それにしても第2楽章アダージョ・アッサイの恍惚よ)。