「これさえあれば版の違いが一聴瞭然!」という謳い文句の、朝比奈隆御大と(よりによって)宇野功芳氏の指揮するブルックナーを比較した企画盤が手元にある。おそらく四半世紀前に興味本位で購入したときに流して聴いて以来耳にしていなかったと思う。
ちなみに、僕は宇野さんの交響曲第8番には実は僕は惚れ込んでいて、彼のほかの奇天烈な指揮とは異次元の、過去の名匠の解釈を折衷した、スマートな、ほとんど物真似のような演奏なのだけれど、実にブルックナーへの愛がこもった、また造形も完璧で、先入観を横において傾聴したら、おそらく誰もが感動するであろう名演奏だと思うのである。
ただし、朝比奈御大と宇野さんのブルックナー観は明らかに異なるもので、いかに企画盤といえど、比較のため並列に置いたのはやっぱり悪趣味かもしれないとも思う。
例えば、クレンペラーのブルックナーについてかつて宇野さんは次のように書いた。
クレンペラーのブルックナーは確かに構えが雄大で精神がこもり、群少指揮者の遠く及ばぬ境地に達しており、部分的には美しい個所も少くないが、ブルックナーの音響とは似て非なるものだ。このことだけは断言しておこうと思う。
~宇野功芳著「モーツァルトとブルックナー」(帰徳書房)P270-271
加えて宇野さんは、クレンペラーのブルックナーは人間臭さが出過ぎで音楽を損なってしまっているというのである。一方の朝比奈御大はかつて宇野さんとの対談で次のように語っている。
朝比奈 クレンペラーにはお目にかかったことはないんですが、レコードを聴いたり、著作を読んだりして心酔していた時代がありましてね。
宇野 どういう点で?
朝比奈 構成がしっかりしている。音楽ですから、情緒も感情もあるんだけど、そこに流されない。ことに、ブルックナーの交響曲はいい。あの人はモーツァルトもたくさんレコードに入れていますね。モーツァルトとブルックナーというと寸法が合わないみたいだけれども、スタイルとしては同じでとても勉強になるんです。ブルックナーを勉強していた時代には、クレンペラーのブルックナー録音をほとんど全部聴いていました。今でも全部持っていますよ。
~ONTOMO MOOK「朝比奈隆 栄光の軌跡」(音楽之友社)P72
要は朝比奈御大は、クレンペラーのブルックナーは決して人間臭くないところが良いと言っているのである。
結局、すべては受け取る側の感性、感覚の問題であり、音楽の解釈に正否はないということだ。ブルックナーの版の問題についても然り。ハースだろうとノヴァークだろうともはや関係ないと今僕は思う。
版の違いを、音でもって比較できるのは実に面白い。実際耳にしてみて思うのは、いずれもがブルックナーの推敲の賜物であり、後世の学者たちがこぞってブルックナーの最初の意図と意思を形にしようとした結果であるということだ。それは、いかに音楽が生ものであり、時間の芸術であるのかということを痛感する事象でもある。
宇野さんのブルックナーも御大のブルックナーも、二人が鬼籍に入られた今や再現不可能なものであり、それらは遺産である。そしてまた、彼らのブルックナーが、日本のブルックナー受容史の重要な一コマであることを忘れてはならない。