パストラール・シンフォニー
そこでは、絵画ではなく感情が表現される
それを、田園の享受が人間のなかに生み出す
その際、田園生活のいくつかの感情が描かれる
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P694
ベートーヴェンの交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」。
それは、音による情景描写ではなく、作曲者の、否、(おそらく)全人類の音による心象風景の描写だ。
たぶん、ショスタコーヴィチはこの方法に倣ったのだろうと思う。
絶対権力者の期待を外し、あえて当時の民衆の心象風景を交響曲として認めたのである。
周囲のすべての人々はスターリンを讃美し、そしていま、わたしもまたこのいまわしい事業に加わるものと期待された。これにはいわば当然な理由があった。わが国が勝利のうちに戦争を終結し、どれほどの犠牲があったにせよ、肝腎なのは勝利したことであり、帝国が領土を拡大したことである。そこで、四管編成のオーケストラと合唱と独唱による指導者への讃歌を書くことがわたしに要求された。ましてや、第9番の交響曲の第9という数字はスターリンにふさわしいものと思われていた。
~ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P251-252
ショスタコーヴィチの真相告白には衝撃を受けた。それが本当なのかそうでないのか、今さらそんなことはどうでも良いとさえ思う。たとえヴォルコフの脚色があったにせよ、ショスタコーヴィチは当時の心象を描いたことに違いはない。
白状すると、「指導者にして教師」に夢を与えたのはわたしだった。わたしは讃歌を書いていると公表していたのだ。このことについては明言を避けたいと思っていたのだが、そうはゆかなかった。わたしの第9番が演奏されたとき、スターリンはひどく腹を立てた。彼は自分の最良の気分を傷つけられたのだが、それは合唱もなければ独唱もなく、讃歌もなかったからだ。しかも、自分にたいするわずかばかりの言及さえもなかった。スターリンにはよく理解できない音楽と、疑わしげな内容があるばかりだった。
~同上書P252
合唱も独唱もないが、ショスタコーヴィチの交響曲第9番には、讃歌はあると僕は感じる。それにじっくり傾聴すると、実に構成の見事な、ウィットに富んだわかりやすい音楽だと思う。
第2楽章モデラートが意味深い。後年の、魑魅魍魎、いかにもショスタコーヴィチらしい楽想があちこちに木霊する。そして何より、アタッカで続けて奏される第3楽章プレスト、第4楽章ラルゴ、そして終楽章アレグレットの喜びと躍動よ。これはまさしく讃歌だと言えまいか。それも、二枚舌作曲家ショスタコーヴィチの心象風景だと。私見では、ショスタコーヴィチの「パストラール・シンフォニー」。
ところで、ニューヨーク・フィルがモスクワを訪れ、作曲者臨席のもと交響曲第5番を演奏したそのコンサートは空前の成功を収めた。帰国後すぐに録音されたのがこの音盤に収録されたものだ。自分の本音を決して語らなかったショスタコーヴィチがバーンスタインの演奏をどう思ったのかは定かではない。しかし、速めのテンポで颯爽と、そして研ぎ澄まされた感性で進められる音楽は今でも新鮮だ。