
1954年初め頃の手紙。
病を得て、気弱になったフルトヴェングラーは自身の心情を語る。
アウスゼー温泉からのお便り、しみじみと、かつは嬉しく拝見しました。すぐご返事しなかったのは、体の調子が悪かったからなのです。クリスマスの頃から流感にとりつかれ、抗生物質を使った結果が思わしくないために、このサナトリウムに入院する羽目になりました。これでいよいよ再び元気になれると思うのですが。もっとも初めのうちは、けっこう辛い日が続きました。ようやく安心できるようになった今日この頃です。自作の交響曲を演奏するはずだった2回の演奏旅行を含めて、全部のコンサートを3月中旬までは取り消しにしなくてはなりませんでした。心の弱った折々には、そのためになにほどか良心の痛みを感じます。でも総じて、これから1ヶ月半なり2ヶ月なりの期間を珍しく自分自身のために使える可能性をもったのですから、この際、ほとんど出来あがったに等しい私の第3交響曲の完成を急ぐつもりです。
(1954年1月19日付、バーデン=バーデンのエーベルシュタインブルク・サナトリウムからフランク・ティース宛)
~フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P288-289
死因となった気管支カタルの遠因、というか、そもそもフルトヴェングラーの肺機能は1年前にすでに随分弱っていたことがわかる。それでも仕事に生きようとする巨匠の心情たるや。結果的にこのときは復調するも、やはり1954年春以降の無理がたたり、11月末に命を落とすことになった。何とも残念だ。
そして、フルトヴェングラーは次のように手紙を締めるのだ。
不思議なことがあればあるものです。年をとって名が出れば、自分の身も時間もずっと自由になり、若い時は地位を築かなければならぬために果たしえなかったいろいろなことができるようになると、昔は思っていました。事実はその反対であることに、今にして思いいたりました。かつてロダンについてもそんな話を聞きました。あの彫刻家も晩年は、美術商人どもの注文がうるさくて、もはや大作に取り組む余裕もなく、些事に力を浪費してしまったということです。貴兄がいかに辛い立場に立たされているかが分かります。そして、私とて同じことです。私の時間は昔より多くなるどころか、かぎりなく少なくなってゆくばかりです。しかも今の時点であえて生活を変えようとすれば、一大覚悟がなくてはなりません。今は病気ですからどうということもありません—とにかく歴とした病気だったのですから—。でも、また健康になったあかつきには、どんな生活が待ちかまえているというのでしょう?
~同上書P289
自身が老い先永くないであろうことを、この時点で自覚はあったのかもしれない。
一旦復調の後、フルトヴェングラーはベルリン・フィルを引き連れ、楽旅に出る。
1954年5月15日土曜日、スイスはルガーノ、テアトロ・アポロでの演奏会。
フルトヴェングラーの指揮する「田園」の解釈はもともと重く、暗いものだが、このルガーノでの演奏はその印象が一層色濃く表れ、聴いていて胸が苦しくなるほどだ。しかし、特に第3楽章以降の表現は実に壮絶で、見事(45年前、チェトラ・レコード初出のアナログ盤で聴いたとき、僕はぶっ飛んだ)。
第4楽章「雷鳴、嵐」から終楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」はフルトヴェングラーならではの表現だが、1952年のEMI録音に比して、生命力に溢れ、推進力に優れている。感冒で弱気だったフルトヴェングラーにしては、もはや最後かと渾身の力を込め歌い切るコーダの祈りは、直前のクライマックスを超え、深沈たる「侘び寂」の世界の境地であり、例のヘルベルト・ケーゲルの最後の来日公演の表現を凌ぐ(最終和音の最後が途切れ、ぶつ切れ状態になっているのが残念だ)。



ルガーノのフルトヴェングラー、1954(SLF 5017/8)
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.5.15Live)
もはや言い古されたきらいがあるが、モーツァルトのK.466は第1楽章アレグロ冒頭からフルトヴェングラーらしいデモーニッシュな表現で、魂の激白のような壮絶な印象(当時50歳くらいだったルフェビュールのピアノ独奏も指揮者の心と同期し、素晴らしい音楽を奏でる。ちなみに、カデンツァは夫であるフレッド・ゴルドベック作のものを演奏している)。
第2楽章ロマンツェの夢見る可憐な独白はルフェビュールの独壇場。一転、終楽章ロンド(アレグロ・アッサイ)ではフルトヴェングラーが主導権を握る。実に喜びに溢れる音楽が繰り広げられ、聴衆も怒涛の喝采でそれに応えている。いわずもがなの名演奏。
そして、シュトラウスの「ティル」は、情感こもる演奏であり、まるでティルがその場に現われ、実際に演じるかのように物語的だ。
すべてが45年前、初めて聴いたときと印象が異なる。
すべてが鮮烈で、そして演奏の瑕も当然ある、リアリティに富む音楽的な音楽に心が躍る。なるほど僕の器も当時に比較してだいぶ大きくなったようだ。

