
かくて私は、オーペルンリングのあのなじみの部屋部屋に入った。あるいはむしろ、数年前のシュトラウスとシャルクのように、ケルバーと分けあった。そして、60に手の届く私が、もう一度ひとつの偉大なオペラ機関の責任を負うことになったのである。これでニューヨークにおける私の冬の活動もふたたび終わりになり、それから1939年の1月までアメリカにはやって来なかった—私の力はほとんど完全にウィーンとザルツブルクのためにとられ、ただときおりヨーロッパ各国への旅行のために、短期間ウィーンでの仕事を留守にするだけであった。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏—ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P424
短い期間ながら、ブルーノ・ワルターがウィーンに居を置いたことは音楽史的に大きな意味を持つ。ナチスの台頭により都度移住を余儀なくされたワルターのウィーン時代の(特に)録音はいずれも人後に落ちないものだ。
5月の末、6月の初めは、パリが「懸案中」である。今ウィーンの住まい(ウィーン18区テュルケンシャンツ通り20)に、ぼくらがベルリンから取り寄せた家具を、とても美しく、とても快適に飾り付けた。ロッテにもウィーンで自分の住まいを持たせてある。万事はめでたしだが、ヨーロッパの痙攣と地鳴りのなんらかによって、われわれは再びオーストリアから追放されないなどと、だれが知ろうか? 世界の様相は切迫しており、すべてのことを覚悟しておかなければならない。
(1936年1月20日付、アルトゥル・ガブリロヴィッチ宛)
~ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P231
予想のつかない、予断を許さぬ世界の変転に人生を翻弄された一人の人間の言葉は今となっては非常に重い。この時期の彼が残した録音は確かに美しく、素晴らしい。典雅な響きの中にある異様な(?)哀惜感を感じとるとき、それはおそらくワルター自身の内面の覚悟の反映だったのだろう。
ふくよかな残響に酔い痴れる。当時の雰囲気までとらえ切った音響こそワルター&ウィーン・フィルの魅力。シューベルトの「未完成」もモーツァルトの「プラハ」も、何と活気と生命力に満ちる演奏なのだろう。「古き良き」などという使い古された言葉は使いたくない。それよりもブルーノ・ワルターのそれぞれの作曲家への誠心誠意が見える音楽の力のすごさにあらためて僕は舌を巻く。
さて、今や地獄のオーストリアから、ロッテが抜け出て2週間になります、—スイスのルガーノ駅頭で、ぼくらは彼女を待ち受けていまして、辛酸をなめてきた娘を再び胸に抱きしめることは、大きな感動でありました。
目下のところぼくらはみないっしょで、客に手厚いフランスにいますが、この国でぼくは多大の好意と敬意を示されています。ぼくらというのは、つまり、2人の娘にぼくら夫婦およびグレーテルの夫なのです。しかしグレーテル夫妻は、2,3日すればベルリンに戻らねばなりません、彼が仕事のためむこうに縛られているからですが、彼らがドイツにいるかと思うと、たまらなく苦しく感じます。
(1938年4月22日付、クラーラ・ガブリロヴィッチ宛)
~同上書P239
切迫した状況にこちらの胸が痛くなる。
ハイドンの「奇蹟」は、まるで実況録音であるかのようにライヴ感満載。演奏は決して完璧ではない。しかし、実に意味を持った響きで、腸(はらわた)に染みるような重低音を醸す。果たして音楽どころではなかったであろうワルターの心中はどうだったのか?
音楽にひらめく陰陽すべての事象が刷り込まれるウィーン録音それぞれの意義。言葉がない。